2011-04-01から1ヶ月間の記事一覧

退院の日の自宅の窓からの景色。

病院の窓からの景色と良く似ていたせいか、入院中もなぜか窓から見えるケヤキの枝に癒されていた。

退院の日(闘病記 2011年4月30日)

入院して53日目の4月28日に、予定より約2週間早く退院することが出来た。と言っても完治した訳ではなく自己管理の元に自宅療養することになっただけで、1ヶ月に1回通院して検査を受け、ステロイド錠を1錠ずつ減らしていくことになっただけだ。 雪の日に入院…

しかし、挿繪家の創作態度がたとへどんなであろうと、挿繪はあくまで大衆的であることを忘れてはならないと思ふ。大衆的であるとあるといふのは、どんな人にも好感をもたせるやうな線の美しさ、リズムの美しさ、人物の顔や容(かたち)の綺麗さを稱するのであらう。繪の綺麗であることは挿繪家の第一義にせねばならぬことゝ思ふ。

製版技術も印刷技術の進歩につれて、発達して来てはゐるが、まだまだ進歩の余地はあるであらう。しかし挿繪家としては、印刷用紙や印刷術や、印刷技術に制約された範囲内で技巧を駆使し効果をあげなければならないのである。 以上述べたやうに挿繪家は、制作…

ネットで購入した「さしゑ」第2号(『名作挿画全集』2巻付録、平凡社、昭和10年8月)、「さしゑ」第5号、「さしゑ」第9号が届いた。これは今まで紹介してきた挿美会が刊行した「さしゑ」と全く同じタイトルだが、これとは何の関係もない平凡社から刊行された書物『名作挿画全集』の付録だ。『名作挿画全集』は、古書市などでもよく見かけるが、この付録版「さしゑ」が付いているのはほとんどない。ましてや全12巻揃えるのはかなり難しい希少資料といえる。

『名作挿画全集』2巻(平凡社、昭和10年8月)と「さしゑ」第2号(『名作挿画全集』2巻付録、平凡社、昭和10年8月) 「さしゑ」第5号、「さしゑ」第9号 今回は、この中から富永謙太郎「内あけ話」(『名作挿画全集』2巻(平凡社、昭和10年8月)を転載させて…

美空ひばりと同じ〈闘病記2011.4.26)

美空ひばりは間質性肺炎を患って52歳で他界した。私も同病を患っているので、退院後の自宅療養では無理のないような生活をして、一生、ステロイド投薬は切れないかも知れないという病気とうまく付き合っていこうと思っている。美空ひばりも最後のステージ等…

降圧効果実験サラダを馬の餌なんていわせない(闘病記2011.4.24)

病院食に不満がある訳ではないが、突然バリバリと生野菜が食べたくなり、野菜サラダを作ることにした。といっても、材料も容器もない。差し入れの時に置いていってくれたZiplocの容器をサラダボール兼盛りつけ容器にすることで器は解決。 野菜は既にサラダ用…

肉筆が、版芸術より一段上のものだ、と思いこむ迷信をまず打破しよう。ロートレックの油絵にはいいものがある。然し、油絵よりもすぐれた石版画があることも忘れてはならない。或る場合、彼のポスター画の方が、今日、私たちの気持によりぴったりする。歌麿の肉筆と、版画でも、同じことがいえる。夢二の肉筆と挿絵にしても同様だ。

ところが木版と凸版とでは、木版の方が手工業的不自由があるだけ、雅味がでてくるのは当然だ。然し、だからといって今日、発行部数の多い雑誌の挿絵に木版を使うわけにもいくまい。かりに木版で彫っても、凸版にとり直して、紙型をつくることになる。 してみ…

もう少しでページビューが666666と6並びになりそうだ。この瞬間を見てみたいのだが、うまく表示されるだろうか。たまらなく好きなんだよね、この数字が並ぶときの快感が。

♪でました〜6並び。

ピラミッドの様な清瀬の新都市伝説誕生か(闘病記2011.4.23)

命長らえたことに感謝して、太陽にお礼を言おうと思い日の出を待っていたら、思い掛けない光景を眼にした。 これはまさに複十字病院の都市伝説と言える新発見だ。 まずは、この写真を見て欲しい。 朝5時25分、廊下に出たときに、朝日が廊下を真っ赤に染めて…

日本画でもそうだ。いたずらに大きさを競い、日本画だか洋画だか、奇妙奇天烈に絵具を塗りまくった自称大作よりも近東や西蔵のミニアチュール、ビアズレーの線画に魂の憩いを感ずる.

それがいい挿絵であれば、わざわざ埃にまみれて美術館まで出かけなくても、手軽に自宅で楽しめるし、いつでも手もとにのこるし、鑑賞者にとって、こんな嬉しいことはない。 あえて、私は、いい挿絵といった。あまりにも、現在、わるい挿絵が多すぎるからであ…

私は絵が好きだから、しばしば展覧会を見に行くが、わけのわからぬ、みてくれ主義の、アブストラクトの洋画など、何の感銘も受けぬ。むしろ、古本屋の店先にさりげなくぶらさがった、一枚の小村雪岱の黒白画に、どれほど心ひかれることだろう。

今日は、清瀬市の新都市伝説を確認するために、日の出前からカメラを構えて、朝日が差してくるのを廊下で待った。朝5時20分ころ窓から朝日が差し込む。

東側の窓から差し込む朝日の光 西側の窓の方を振返ると、廊下の奥まで光が差し込んでいるのが分かるだろう。つまりこの廊下はほぼ東西に向かって伸びており、建物の四辺も、あのクフ王のピラミッドのようにほぼ東西南北に位置しているものと思われる。 歩い…

今回は、小泉純「挿絵太平記」(「さしゑ」1号、挿美会、昭和34年4月1日)を紹介しよう。

本絵を描くのは、非常に高尚な仕事で、挿絵を描くのは、ひどく低俗なわざだと思いこんでいる人がいる。 一般世間で、そう誤信しているのなら、まだ許すべきだが画家自身の中に、そう信じ込んでいる者が、比較的多く存在するのは、全く救い難い。 「おれは本…

これなに?(闘病記2011.4.23)

病院の庭は良く手入されていて、先週は桜が満開だった。この病院の総裁と言う秋篠宮妃殿下紀子さまが植樹されたという枝垂れ桜も見事に咲いていた。 今週からはボタン桜が満開で見事に咲き誇っている。 しかし、よく見ると、桜より面白いモノを見つけてしま…

今朝の朝食はちょっと豪華、納豆キムチ丼(闘病記2011.4.23)

いつもの朝食よりちょっと豪華に見えたのでメニュー表を見て調べたら、いつもより一品多かった。退院が近くなったので私だけにそうしてくれたのかと思ったら、そこまで暇ではないようだ。 ご飯、味噌汁、インゲンゴマよごし、白菜塩漬け、薄甘白花豆、の5品…

講談倶楽部の発刊は明治四十四年十一月で、続いて大正三年、五年に面白倶楽部と講談社の大発展が宛もこの時期に相当し挿画の舞台が大がかりとなって、ここに割然と挿画家、漫画家という専門家が成長し美術界に一分野が生まれた事になる。

挿画を殆ど専門的にやった井川洗崖や鰭崎英朋の後に近藤紫雲、谷洗馬などは僕などと同時代に属したが、一方鏑木清方のあとに伊東深水、山川秀峰、鈴木浚秋(朱雀)などの麗筆時代があって岩田専太郎などの時代に続く訳だが、考えて見ると凸版時代になってか…

ベッドで水彩画(闘病記2011.4.22)

かれこれ4年ほど続いている某月刊誌の表紙画を入院しているからといって中止する訳に行かず、なんとか完成させて郵送した。 電話を使っての指示で、父の日をイメージしたモチーフを買いそろえてもらって、水彩道具を自宅から運んでもらうだけでも結構大変だ…

清瀬のダークダックス(闘病記2011.4.22)

昨夜、病院の待合ホールで、男性カルテット、清瀬のダークダックスこと“ほろよいず”による慰問コンサートが行われた。演奏曲目は、唱歌「こいのぼり」など4曲、美空ひばりの曲から「東京キッド」など4曲、コマーシャルソング「日立」「日生」「サントリー」…

その頃コマ絵と称する挿画は新聞や雑誌に無くてはならぬ、刺し身のツマの如きもので未醒は尤も輝かしい一人で、他に宮崎与平(後に渡辺)太田三郎、橋本邦助、小川芋銭。それに和田三造、和田外面(英作)の人たちのものも各紙上で見受け、平福百穂も亦特異の存在だった。

このように雑誌に於ける挿画の舞台は甚だ狭く、勿論挿画を本業の如くにしている人もあったが多くは風俗画家(浮世絵師)などの余業に属していた訳で、挿画を本業の如くにして居る人達でも所謂本格面も一と通りは出来たのだ。当時挿画という言葉があったかど…

挿絵に写真版が使用され出したのは大正二三年頃からと思うが、凸版はやや遅れたように思う。しかし写真や凸版が使用されても原画はやはり原寸に描いた。ただ用紙が自由になったと言うだけだったが、次第に大きさも自由と判ったので、木版の窮屈さが一度に吹き飛んだけれど、木版の味を慕う人にはまだ馴染めなかったようである。

この新製版術の登場に依って挿画も変化を来たし洋画が取り入れられ自然洋画家も出現した。斉藤五百枝とか田中良、清水三重三といった人がそうであろう。竹久夢二も時事新報へ久米正雄の『蛍草』だったかの挿画に特異な挿画をモノして注目された。 この辺で当…

院内の自販機が……(闘病記2011.4.19)

病院内に設置されている自販機7台のうち4台が使用中止になっている。勿論計画停電に協力しての節電対策だと思うが、かなり不便になった。石原都知事が自販機は要らないといったが、意見としては理解出来るが、実際には困惑する人がたくさんいるのではないか…

以上僕の是まで歩いた道を略記したが、さて五十年前を顧みて思うにその頃の僕達の絵の刺激の対照となったのは水野年方、富岡永洗、梶田半古、武内桂舟、というような先生達で凡そ挿画に志す人だったら是等の先生の直接間接に感化を受けぬ人はなかったと思う。殊に半古の読売新聞における挿画は簡潔で瀟洒で当代風俗表現の妙手だった。

それから漫画家として渡辺審也の時事新報に於ける挿画は一大特色を帯び、木版に編目彫りの創意を見せて注目をひいた。洋画家で新聞小説の挿画を描いたのは恐らくこの人が最初ではないかとおもう。 その新聞小説の挿画は凡そそれぞれの新聞の専属的になって居…

近現代挿絵に関する古い文献等は少なく、資料集めが大変。そんな中「さしゑ」4冊は昭和30年発行当時に活躍していた12名の挿絵画家たちによって編集・執筆された大変ありがたい貴重な資料だ。しかしこの「さしゑ」そのものが非売品だったため発行部数が少なかったものと思われ、なかなか手に入らない希少な資料でもある。私がここにネット復刻しようとしているのは、そんな貴重な資料を広く公開して共有し、また後世に残したいと思うからだ。今回の文献も、今では使われなくなった業界用語などが出て来て、大変に興味深い。

今回は細木原青起「《半世紀前の回想》木版から凸版への転換期」(「さしゑ」2号、挿美会、昭和30年8月)を転載して紹介しよう。 僕は別に挿画や漫画家になるつもりで画かきを志したのではなかったが、手ほどきをして呉れた先生が地方新聞の挿画を描いて居た…

理想の体重とは……(闘病記2011.4.16)

身長170cm、体重70kgの理想の体重を調べてみると 次のように、いろいろと出てくる。 ● 標準体重の中央値の計算式のいろいろ ・桂の方法=(身長[cm]−100)×0.9=63kg ・ブローカの方法=(身長[cm]−100)=70kg ・ブローカの変法=身長165〜17…

街にはメタボ誘惑食品が溢れてる(闘病記2011.4.14)

病院食を1ヶ月も続けていると、今までの食生活は何だったのかと思うほど、全く別世界のモノに思えてくる。それほどに私達(?)はメタボ食品を食べるのになれてきてしまっている。1ヶ月経過して、体重は6kg減った。ややメタボだった私にとっては、思い描い…

挿絵が小説に従属したのは、のんびりした昔の話で、現在は、挿絵が小説を支配しているのである。その作家の名を高からしめるも、低からしめるも、画家の方寸にありとすれば、全く愉快である。

だが然し、待てよ、傀儡師、鬼をだすも、女を出すも画家の自由であるが、へたな絵ばかり書いて、作家に復讐していると、いずくんぞ知らん、それは自らの墓穴を掘っていることになる。 やはりその小説を、少しでも光らしめようにしないと、自分の存在があやう…

今回の小泉純「新聞小説の挿絵」は、「さしゑ」2号(挿美界、昭和30年8月)に掲載されていたものを転載させてもらう。

今日、普通一般の日刊紙で、小説を掲載市内新聞の存在は考えられない。 これだけでも、新聞に於ける小説の地位と、その重要性を推察されることができる。 しかも、それらの小説には、必ず挿絵が配されている。戦前には、挿絵なしの小説が一流紙に掲載された…

雪の日からはや1ヶ月(闘病記2011.4.12)

入院したときは雪が降っていて、寒い日だった。それから1ヶ月。ケア木の木が芽吹いて緑が多くなって、窓からの風景もだいぶ春らしくなってきた。庭には秋篠宮妃紀子さまが植樹した枝垂れ桜が8分咲きで、春らんまんを呼びかけているようだ。 私はまだ外に出る…

ちかごろの週刊誌や日刊紙ではその専太郎のような人たちにほかに、既成画壇の人たちがいろいろ登場してきます。鈴木信太郎、硲伊之助、宮田重雄、宮本三郎、猪熊弦一郎、佐藤泰治、小磯良平、生沢朗、風間完、寺田政明、朝倉摂その他の諸氏、最近はアヴァン・ギャルドの阿部展也まで描きはじめています。おもしろいことは、ということは民衆から離れた場で描くわけにはいかないということなのですが、アヴァン・ギャルドでさえリアリスティックなあるいは自然主義的な絵を描かないわけにはいかないこと。たとえば猪熊の場合でも風景を描くと全く自然

宮田重雄:画、石川達三「四十八歳の抵抗」 これならば岡本太郎だってさしゑを描いてみればいいと思います。どこかで描かせればいいと思います。どんな絵を描くか、あるいは描かないか、それとも描けなければ、しかし、ウソだと思うのです。 私はさしゑの道…

谷崎潤一郎の「蓼食う虫」の小出楢重のさしゑがまたたのしいものでした。それからあとは永井荷風の「濹東奇譚」の木村荘八・徳田秋声の「縮図」の内田巖。それから何という題の小説だったか阿部知二の鎧文吾という主人公の出てくる小説のさしゑ脇田和。まだ思い出せばいろいろありそうです。夢二がおもしろかったこともあるし、童画では初山滋がいいと思ったこともあります。

木村荘八:画、永井荷風「濹東奇譚」 内田巖:画、徳田秋声「縮図」 さしゑは一作品ではなくてマスプロによって直接大衆によびかけることのできる絵の一種、とことわるまでもなく、樹分それの専門家として立っているものだし、立たねばならぬものだと思いま…