その頃コマ絵と称する挿画は新聞や雑誌に無くてはならぬ、刺し身のツマの如きもので未醒は尤も輝かしい一人で、他に宮崎与平(後に渡辺)太田三郎、橋本邦助、小川芋銭。それに和田三造、和田外面(英作)の人たちのものも各紙上で見受け、平福百穂も亦特異の存在だった。



このように雑誌に於ける挿画の舞台は甚だ狭く、勿論挿画を本業の如くにしている人もあったが多くは風俗画家(浮世絵師)などの余業に属していた訳で、挿画を本業の如くにして居る人達でも所謂本格面も一と通りは出来たのだ。当時挿画という言葉があったかどうか定かには記憶にないが大抵の場合版下画と呼びなされ、従って板下画家と言う名称はあった。けれども版下画という分野はなく、美術界の一分野とすれば風俗画家、或いは浮世絵画家に属していた。


明治四十四年に高浜虚子が俳誌ホトトギスに掲載された画を収録して豪華な装幀で出版され、それに「さしゑ」と題名された。中村不折、下村為山、小川芋銭平福百穂を始め川端龍子森田恒友、小川十甕、前川千帆、宮崎与平、その他僕の画も一、二載っているが、それらの絵は別に俳句や読物には関係なく全く独特な俳味画で、雑誌の綾として二、三頁宛飾られたものであり、雑誌に挿入されたという意味で、今日の通念の挿絵ではない。今日言う挿画でない画を集めて挿画と題された当時の事を想うて凡そ其時代の空気が認識されよう。


そんな本の出現がキッカケとは言わぬが、その以後に於て挿画という言葉が普遍化したかと思う。大正三年岡本一平、池部釣、僕なども参加して東京漫画界を結成した事に依って、従来ポンチ絵或いは風刺画と呼びなされていたものが一様に漫画と呼ばれる事になったが、意味の違う漫画と言う言葉も無論夫れまであったと同様、意味の違い挿画いう言葉が、版下絵から挿画という言葉に塗り替えられたのとのと軌をを一つにするようだ。


それが奇しくも木版から写真銅版、凸版(当時ジンク版と言った)などに肩代わりした大正二三年頃に相当し当時が誌上画の一大転換期だったと言える。(つづく)