2012-05-01から1ヶ月間の記事一覧

この2つのサインはどうみても「K」にみえる。名前を確認すると画像左が「山下大五郎」、右が「帷子(かたびら)すゝむ」とある。つまり左は漢字の「大」で右はカタカナの「ス」のようだ。サインは漢字なのかカタカナなのかアルファベットなのかの確認さえも困難なことが多い。

挿絵画家・濱野彰親さんは若い頃は濱野政雄と名乗っていたが占師の提言を受け雅号を変更したら急に売れっ子になったそうだ。その影響かどうか、同僚の挿絵画家たちが一斉に雅号を変更したそうだ。同様に浅野薫(画像左)と浅野碌耳(右)も、同一人物なのではないだろうか? 浅野薫のサインがなぜ「耳」なのか不明だったが、同一人物だとするとそれも解決する。

「挿絵家たちの落款解読」(年刊誌「本の手帳」11号、2012.6発売予定)は1頁×15名掲載なので、10頁で150名しか掲載できない。600名掲載するには4回連載することになり、4年後のオリンピックの年に掲載完了となる計算だ。そのうちにどこかの出版社が単行本にしてくれるのではないかな?? なんて暢気な企画なのです。猫ひろしさんは、4年後にまたオリンピックに挑戦するのかな?

著作権の侵害の話をするつもりはないが、画像左は杉浦非水:「三越呉服店ポスター」(大正4年)。右は「国際画報」(大正12年)、作者は「文」と読めるサイン(サイン右)以外は不明。このサインは今のところ誰のものか分かっていない。サイン「文」の左右に斜めにちょんちょんと線があるのも非水がよく使う「非」のサインと似せたのだろうか。今なら直ぐに裁判沙汰になりそうだが、おおらかで穏やかな時代を感じさせてくれてある意味うらやましい。真似されたことを非水が知っていても高笑いしている……というような話はないのかな?

百貨サービス機関誌「生活者」(昭和9年11月号)総頁数40頁の小冊子には鯛五郎「紳士心得帳」「現代女大学」という2本のファッション関連の記事が掲載されている。広告ページが多く、わずかな記事を一人で2本も書いているのは少人数で制作したものと推測され、これ等の記事に付されたカットも含めて、表紙絵を描いた画家「G.T」は、絵も文章も達者なファッション関連の仕事をしているこの鯛五郎だとおもわれる。あの「しとしとピッチャン〜♪…」の子供はタイゴロウ……じゃないか?

ベランダで10年ほど育て2m程に伸びた山椒の鉢植えが、昨年たくさんの芋虫に食い尽くされて枯れてしまった。ここ数日、その枯木の周りにキアゲハが毎日飛んでくるので、またも懲りずに山椒の木を購入してきた。これでまたアゲハチョウが孵化するのを見ることができるかな。

「映画時代」(大正15年)の表紙画の画家は「CHIAKI」。ちあきで思いつくのは富田千秋だが、私が知っている富田は画像右のような時代小説の挿絵画家のイメージが強いので、まさかあの富田じゃないだろうとイメージのギャップのあまりの大きさゆえに特定できずにいた。が、よく見ると時代小説でありながらアルファベットのサイン(右下)を記しているではないか。間違いない!

昭和3年には平仮名のサイン(右上)だった硲伊之助(はざま いのすけ、1895-1977年)だが、戦争が終ると「日本小説」(昭和23年)の挿絵に記されたように、洋画家たちが待ち望んでいたアルファベットのサインに変えている。

二人の「Tom」? と思いきや、よく見ると「Tam」。画像左は村山知義(1901-1977年):画「何が彼女をそうさせたのか?」(昭和2年)、右は田村孝之介(1903-1986年):画「再建」(昭和21年)。いつもの田村は「Kou」「K.Tamura」などのサインが多く絵も写実的なのだが、画風もサインも村山風に見せた田村の遊び心か? そうだとしたら楽しい!!!

画像は野長瀬 晩花(のながせ ばんか、1889-1964年):画、パアル・バック「大地」(第一書房、昭和13年)表紙装画ということは分かっているのだが、「野長瀬 晩花」がどうしてこのようなサインになるのかが理解できない。だが、しつこく野長瀬 晩花のサイン分析に挑む。草書体の「晩}(画像右)をみると「日」篇+「火」旁の様な文字で構成されているのが分かる。この篇と旁を上下にならべると画像中央のようなサインになるのではないか? ド〜ヤ顔!!

「♪解けない謎をさらりとといて〜♪」と七色仮面のようにはいかない場合が多い。今回も「科学知識」(昭和5年)の表紙絵は目次に「表紙 金子徳郎」とあるが、目次のサインは「BonTon」または「BorTor」とある。名前を略して「金徳」を「KinTok」とするなら……ダメか。

このサイン(右上)は読めないだろう。デモ心配ない!このサインは幾つも収集しているので、もう少し読みやすいサイン(右下)を見てください。『週刊朝日」(昭和6年)に掲載された堤寒三(1895−1972)の挿絵のサイン。寒三は、東京日日新聞,読売新聞,朝日新聞で漫画記者をつとめ時事漫画などを担当した。昭和12年報国漫画倶楽部を組織し軍部に協力。戦後は西日本新聞で政治漫画を描く。

草野 心平(1903-1988年(昭和63年)は、「蛙の詩人」と俗に言われるほどに、生涯にわたって蛙をテーマとした詩を書きつづけ1950年(昭和25年)には、「蛙の詩」によって、第1回読売文学賞を受賞。挿絵は「歌のひびき」(「日本小説」昭和23年)に添えられたカッパの絵? 前衛的な詩人・心平は描く挿絵もモダンさに溢れている。

火野 葦平(1907-1960年)は『糞尿譚』で芥川賞を受賞、その後の『麦と兵隊』、『土と兵隊』、『花と兵隊』とあわせた「兵隊3部作」は300万部を超えるベストセラーを世に送り出した作家でありながら、見事な挿絵も残している。

「日本小説」(昭和23年)に高森夜江(本名:高森龍夫〈生年月日不詳 - 1958年〉)の挿絵を見つけた。高森は挿絵画家としてより編集者として知られており、改造社『俳句研究』の編集長などを務め、戦後は青山虎之介が創業した新生社に入社、同社発行の雑誌『花』、『新生』の編集長を歴任。また、『巨人の星』や『あしたのジョー』の原作者梶原一騎(高森朝樹)の父であり「巨人の星」の星一徹は、高森がモデルであったらしい。サインは「Yacou」なのか「Yocie」なのか?

今ではほとんどが広告ページになっている表4(裏表紙)だが、「ホトトギス」(昭和5年)の表4に掲載された下村 為山(いざん)(1865-1949年)の装画。為山は、従兄の内藤鳴雪を介し同郷の正岡子規と知り合い、洋画と日本画について議論を交わし啓発し合う仲となり子規の俳句革新に大きく影響を及ぼした日本画家。サインが大きいのは現代日本水墨画の創始者といわれる自信の現れか?

何ともすごい大型コラボレーションといえる「明治大正名作展号「(「アサヒグラフ臨時増刊」昭和2年)の表紙は、和田三造(1883-1967年)の装画を使って、『吾輩は猫である』の挿絵で知られる中村不折(1866年-1943年)がタイトル周りの装飾と装丁を手がけている。500名を目標に昭和初期の挿絵家サイン収集を始めたが、気がつけば610名になっている。600名を越えた頃にはこれで終わりだろうと思っていたが思いもかけない有名な画家が次々に出て来て驚く。

吉原治良(1905- 1972年)は関東ではあまり知られていないが、関西では、家業の吉原製油を手伝い引継ぎ戦後は社長に就任するが、一方1938年には二科会の抽象画家らと「九室会」を結成、1954年に前衛的な美術を志向する「具体美術協会」を結成するなど前衛芸術の牽引車としての活躍は高く評価されている。そんな治良の挿絵を「セルパン」(昭和15年)に見つけた。抽象絵画を模索している頃の芸術運動と連動した貴重な挿絵といえよう。サインがないのが残念~ん。

清宮 彬 ( 1886-1960年)のサインは以前から探していたのだが、昭和の作品がみつからず、昨日神保町でやっと「文と詩」(昭和13年)をみつけた。彬は白馬会葵橋(あおいばし)洋画研究所に学び岸田劉生と知りあい1915(大正4)年劉生らと草土社を創立し同人となる。油彩画のほか早くから創作木版画を手がけ、ヒュウザン会や草土社のポスターや目録、入場券など斬新なデザインによる仕事を残しており、劉生にタイポグラフィーやデザインを手ほどきしたのも清宮といわれいる。サインのHSについてはなかなか解明できなかったが、

こんな事もある。「週刊朝日」(昭和18年]に掲載された田中案山子のサインだが、挿絵にサインが溶け込んでしまい取りだし不可能に。こんな時は次に出あえることを祈ってじっと待つしかないのだが、そんなサインに限ってなかなか再会がない。

東山魁夷(1908-1999年)の挿絵を「週刊朝日」(昭和20年2月4日号)に見つけた。かつて「上野のお山の画家」は挿絵に手をよごしてはならない、という暗黙の了解があり、一品制作の画家が複製物である印刷物に絵を提供するのには様々な抵抗があった。1947年の第3回日展で「残照」が特選を受賞し上野のお山の頂点に立つ魁夷が柳田国男「続村のすがた」にの挿絵を描いたということは、上野のお山の芸術家達の挿絵解禁を意味するもので「魁夷先生も書いて居られる」というのが通行手形になり、戦後、上野のお山から芸術家達が挿絵業界

「ホームグラフ」(昭和15年3月号)の扉にはピカソのクロッキー風の絵が掲載されている。推測でしかないが、アップした表紙絵さえ誰が描いたものか分からないのだからピカソに許可をとったとは思えず、戦後のどさくさにまぎれての無断掲載だろう。表紙絵の隅には「K.Sato」とサインがあるのでかろうじて画家名解読の可能性が残されているが、今のところ当てはまる画家は不明。

これはサイン収集とは関係ないが、古書市でこの表紙に出会ったら買っちゃうよね。岩田専太郎:画「サロン」(昭和23年)。久しぶりに出会った「胸キュン本」はもちろんテイクアウト。いいよね、岩田専太郎。

「週刊朝日」(昭和18年8月1日号)に掲載された挿絵。「カットは小林議長」と画家名が活字で記されているが、「議長」という名前はないな? と思い調べてみると、昭和8(1933)年3月海軍大将に昇進、近衛文麿首相によって昭和18(1943)年につくられた大政翼賛会の中央協力会議議長就任した小林躋造(こばやし・せいぞう)と判明。海軍大将が描いた挿絵だ!! 挿絵は国民総常会を傍聴している配給米を椅子にぶらさげた婦人と提案者をにらむ黒髭の大人。無理に解読する必要はないのだがこのサインは読めない。

解読できる時もあればできない時もある、何回になるのかこんどの難解サインとの出会い。まるで人生の浮き沈みをうたった演歌のようだが、ファイル名「ふ 不明絵+落款「キンダーブック表4」昭和11年s」として保存したまま手も足も出ないでいる。キンダーブックを探せば名前とサインが記されている別の絵があるかも知れないとは思うのだが、古いキンダーブックは児童書といえども案外高価だ。

本土上陸が間近に迫っている時期に戦意高揚にはならない、かといって叛意を表わしているわけでもない「週刊朝日」(昭和20年2月20日号)の表紙に掲載された版画家・川西英(1894-1965年) の「鍛練」。あえて戦闘場面を避けた画題からは、画家の精一杯の抵抗が感じられる。サインの「英」は分かるが、丸の中の文字はう〜ん、読めない。

翌日、この丸いサインをじっと眺め分析しながらスケッチしていたら、右端の2つの点が気になり、漢字にはこの点が当てはまる文字が見つからなかったが、「で」ならうまく当てはまり、「ひで」と読むことに気がつき無事解明することができた。

「週刊朝日」(昭和20年2月4日号」の表紙絵は、田中佐一郎(1900-1967年)による「突撃」、日本本土への本格的な攻撃開始の足がかりとする硫黄島攻略が始まる時期のもの。週刊誌の表紙がモノクロ印刷なのも戦時中の状況を表わしている。佐一郎は昭和9年、独立美術協会会員となり、昭和7年には渡仏している。昭和13年に従軍画家として中国に赴き、16年にはフィリピン、タイ、ビルマなど東南アジア方面で従軍し戦争記録画を制作した。

高円寺古書市で昭和初期に刊行された雑誌を10冊ほど購入。「セルパン 4月号」(1930[昭和15]年)表紙絵は、1923(大正12)年 渡仏し、藤田嗣治に師事した海老原喜之助(1904-1970年)が描いている。

この人のサインも解読しにくい。挿絵の右下の暗いところから取出したのが左下のサイン。なかなか解読できなかったので、右下のように白黒反転してみると「一」と「草」がなんとか見えてきた。挿絵は単純明快だが、癖のあるサインの坂口一草(1902-1997年)は「ひとくせ」と読むのではないだろうな。

説明を読むまで何の絵なのか分からなかった竹内栖鳳(1864-1942年):画「桃山御陵の遠景」(「明治大帝」昭和2年」)だが、サインの解読はもっと難しく何と書いてあるのかすら判別できない。印刷の再現技術が悪いのか、原画はもっと素晴らしいはず。