2010-08-01から1ヶ月間の記事一覧

4月に実践女子学園生涯学習センターで90分3回講演をした「美しい本の話─装丁、さし絵、製本─」が、また11月の毎水曜日、10日、17日、24日(いずれも15:00~16:00)に開催されることになった。講演内容は前回とは違う内容でお願いします、といわれ、

・装丁のパイオニア杉浦非水とアール・ヌーボー・洋画家たちが美しいさし絵を運んできた・安さだけではない美しさも備えた円本全集の3つのテーマで講演することになった。詳しい内容、お申し込みはhttp://www.syogai.jissen.ac.jp0120-511-880へ。 77講座あ…

28・29日と銀座4丁目松崎煎餅3F、松崎画廊で開催中の「堂昌一 中西美子父娘展」に行ってきた。28日は奥様にインタビュー。29日は入院中という堂昌一さんが来場するというので、再度うかがって本人にインタビューしてきました。

松崎画廊・「堂昌一 中西美子父娘展」にて。左から松田真住さん、西村春海さん、堂婦人、バロン吉元さん、星恵美子さん、石川政尚さん、沢登みよじさん。(撮影:大貫伸樹) 松崎画廊・「堂昌一 中西美子父娘展」にて。日本出版美術家連盟会長・濱野彰親氏(…

「見ているだけですめばモデルは幾らでも居る。女を描くという事は、女と生活する意味だ。見ているだけでは本気になれない。描きたいとおもう欲望と、生活を持ちたい欲望とは共通している」(川口松太郎『飯と汁』講談社、昭和35年)多少の脚色はあるだろうが、岩田専太郎の言葉といってもいいだろう。

「形は描けても心が描けない。そんな風に思ってマキにも直ぐ家を持たせた。身体を許してしまったあとのマキは、千吉(*専太郎)のいうことには一切逆らわず、人形のように従順で、希望通りのワクの中に入ってきた。『俺の絵はまた変る。マキのお蔭で変る』と…

堂昌一はこの極端な矩形にあわせて描くことに興味を持ったのか、多岐川恭「用心棒」(「週刊新潮」1977〈昭和52〉〜8(昭和53〉年)では、柱絵のように縦長の絵に挑戦して、浮世絵を思わせる妖艶な挿絵で見事に成功させ、51歳にしてこの新たな境地を切り開いている。

堂昌一:画、多岐川恭「用心棒」(「週刊新潮」1977〈昭和52〉〜8(昭和53〉) 堂昌一:画、多岐川恭「用心棒」(「週刊新潮」1977〜8年) 堂昌一:画、多岐川恭「用心棒」(「週刊新潮」1977〜8年) 堂昌一:画、多岐川恭「用心棒」(「週刊新潮」1977〜8年…

1974(昭和49)年2月に岩田専太郎が亡くなり、「小説サンデー毎日」に連載されていた山岡荘八「徳川家光」は、1974(昭和49)年5月号から堂昌一氏に引き継がれることになった。『徳川家光』が単行本として刊行され第一巻「三代の風の巻」には、挿絵家名が岩田専太郎、堂昌一と二人並んで記され、専太郎の絵が8点、堂昌一の絵が4点挿入されていた。

単行本は第4巻まで刊行され、回を追う毎に表現力が豊になり挿絵に切れがでて、完成度の高い絵に変わっていくのがわかる、48歳の堂昌一に新たな創作意欲の炎を灯させた作品群と言えるだろう。 堂昌一:画、山岡荘八『徳川家光』(毎日新聞社、1974〈昭和49〉…

連載小説のさし絵画家が突如亡くなってしまっては、作家や編集者は慌てただろうな。何せ連載が始まってまだ4回目でのことだから。1974年新年号に第1回目が掲載され、最初の見開きには、岩田専太郎のさし絵が1頁大で掲載された。私の好きな大げさなパースを採り入れ、人物の顔を小さくデフォルメしている。さらに3点の絵を同一画面にコラージュしている。画面にうまくおさまりすぎているのがやや絵を小さく見せているように思える。

岩田専太郎:画、山岡荘八「徳川家光」第1回叛骨の森の巻(「小説サンデー毎日」、昭和49年) 連載小説の最初の絵は難しい。登場人物に関しての詳しい記述がなくとも、人相や髪形、服装などを決めていかなければならないのだから。つまり、さし絵画家のほう…

「小説サンデー毎日」に掲載された岩田専太郎の訃報を告げる記事。

岩田専太郎:画、山岡荘八「徳川家光」(「小説サンデー毎日」、昭和49年)

「小説サンデー毎日」が届いた。この冊子に掲載されている山岡荘八「徳川家光」の挿絵を午前1時30分頃に描き終た瞬間、「頭が痛い、頭が痛い、普通のいたさじゃないんだぞ」というなり人事不省におちいった。岩田専太郎の絶筆となる絵と「岩田専太郎さん死去」の記事が掲載されている。下記の4点が岩田専太郎の絶筆となったさし絵だ。

岩田専太郎:画、山岡荘八「徳川家光」(「小説サンデー毎日」、昭和49年) 岩田専太郎:画、山岡荘八「徳川家光」(「小説サンデー毎日」、昭和49年) 岩田専太郎:画、山岡荘八「徳川家光」(「小説サンデー毎日」、昭和49年) 岩田専太郎:画、山岡荘八「…

ネット古書店で購入した吉行淳之介『裸の匂い』(株式会社ベストセラーズ、昭和47年)がとどいた。この本には岩田専太郎が描いた挿絵が1頁大で18点も掲載されている。専太郎71歳の時に描いたものだ。

さすがの専太郎も最盛期の絵と比べると、どことなく勢いがなくなっているように思える。構図に大胆さがなくなってきたことや、人物の動きやモチーフの配置など、気力が感じられない。線が細く繊細になった戸も見えるが、勢いがなくなったとも見ることができ…

私淑する専太郎の仕事を引き継ぐということで、堂昌一氏も力を入れて創作したのだろう、代表作のひとつとなる挿絵群を見せてくれ専太郎の代役を見事にやりとげた。「週刊文春」昭和49年5月号をネットで購入したら、なんと「西海道談綺」その物が掲載されていなかった。岩田専太郎が他界したあと、連載は一時ストップしたのかもしれない。もう少し資料を漁らないとその辺は解決しない。

そんな折り、昨夜帰宅途中によった東急古書市で、タイミング良く「週刊文春」昭和51年2月19日号と、昭和51年2月26日号を見つけた。 堂昌一:画、松本清張「西海道談綺」第208回(「週刊文春」昭和51年2月19日号) 堂昌一:画、松本清張「西海道談綺」第 209…

挿絵画家・岩田専太郎は、昭和49(1967)年に逝去した時に、松本清張「西海道談綺」(「週刊文春」昭和46年5月号〜49年3月号)、山岡荘八「徳川家光」(「小説サンデー毎日」昭和49年1月号〜4月号)などの連載ものの挿絵を担当していた。その挿絵を弟子を名乗る堂昌一氏が引き継いで描いた。今回は、そんな二人が描いた松本清張「西海道談綺」の挿絵を見比べながら観賞してみよう。

岩田専太郎:画、松本清張「西海道談綺」(「週刊文春」昭和46年5月号〜49年3月号) 岩田専太郎:画、松本清張「西海道談綺」(「週刊文春」昭和46年5月号〜49年3月号) 岩田専太郎:画、松本清張「西海道談綺」(「週刊文春」昭和46年5月号〜49年3月号) 岩…

松本清張「西海道談綺」が連載されていた昭和46〜51年の「週刊文春」を探しに京王デパートの古書市に行ってきた。運良く51年2月19日号と2月26日号を見つける事ができた。栃木県鹿沼から来てくれた古本屋さん、ありがとう。

以前、ネットで検索したときに週刊文春は殆ど1000円以上だ、500円も1冊あったがそれでも、300円以下でなければ買わない、とつぶやいた。すると、なんと本当に300円の「週刊文春」を見つけてしまった。私は古書市で購入する前に、「この本は○○円以下なら買う…

単行本には連載時の書誌データ記載がなく、岩田専太郎がいつまで「日暮妖之介」のさし絵を描いていたのかは、今のところ不明だ。「堂昌一さし絵画集」(ノーベル書房、平成4年)にも、堂昌一が描いた「日暮妖之介」のさし絵が挿入されているが、こちらもさし絵のキャプションの日付は「1972」年とあるだけで、詳しい掲載月日は記されていない。ぜひとも編集者は、雑誌や新聞に連載されたものを単行本にまとめる時は、連載時のデータを記すように心がけて欲しい。

専太郎が他界した昭和49年2月に抱えていた絶筆となった連載もの、「小説サンデー毎日」に連載の山岡荘八「徳川家光」は4月号まで掲載、「週刊文春」に連載中の松本清張「西海道談綺」は3月号まで掲載され、そのあとを堂昌一が引き継いで描いた。 そのことに…

笹沢佐保「日暮妖之介」初出の「週刊小説』創刊号が届いた。

「週刊小説」創刊号(実業之日本社、昭和47年2月)、表紙:司修 永田力:画、五味康祐「忍者が骰子をふった」(「週刊小説」創刊号(実業之日本社、昭和47年2月) 岩田専太郎もいいが、永田力が描いた巻頭小説「忍者が骰子をふった」のさし絵にも魅せられ一…

「長谷川伸の仕事は昭和十一年から二年へかけての『荒木又右衛門』によって、大きく前期と後期にわけることができる。前期の作品には股旅ものに代表されるような義理人情を描いたものが少くなく、とくに『一本刀土俵入』『沓掛時次郎』『瞼の母』などの戯曲は長谷川伸の名を不朽のものとした。

実際に『股旅もの』の名称が普及するのは、昭和四年三月に『改造』誌上に発表した『股旅草鞋』からで、長谷川伸が『股旅もの』の開祖とみられるのも当然なことであろう。」 「しかし、彼はけっして封建的なモラルである義理人情を称揚したわけではなかった。…

「瞼の母」は、長谷川伸自らの境遇に重ねて書いた

もの 「主人公の忠太郎は、五歳の時に実母と別れ、思いでの中に生きる母の像を瞼のうちに描きながら、やくざ渡世の深間に陥ちこんでゆく。賭博なかまに加わるようになったのも、母を思慕するこころを抑えきれず、その感情をまぎらすためだったといえる。この…

夏コミケ(コミックマーケット78)に行ってきた。コミケは世界最大の同人誌即売会でサークル参加者数は3万5000スペース(ブース)、屋内で行われるイベントとしても世界最大級である。さまざまな同人愛好家達が集い、自作の物品を展示、頒布する。漫画・アニメ・ゲーム以外の大衆音楽・アイドルグループのファン同人誌、ゴスロリ服やコスプレ衣装、手作りアクセサリー、同人ハードウェア、人形作家による人形、フィギュア、教師・看護師・航空機パイロット・鉄道員等の一般に知られない職業従事者の日常が描かれたもの、またカメラ、ペット・

ツイッターやブログがそうであるように、受け身ではなく、自己表出(表現)したい人たちがこんなにも溢れている。印刷物による出版のハードルが低くなり、誰でもが出版社などを通さずに、安く自由に本を作れるようになり、販売の場さえもが用意されてきた。 …

「〈縞の合羽に三度笠〉という所謂『股旅もの』のスタイルを創出し、一般に定着させたのは、長谷川伸と子母沢寛の功績であり、戦前は股旅もの全盛時代であった。小説に映画に舞台にと『股旅もの』は盛んに書かれ上映演され、一連の流行歌も全国を風靡したことも、その隆盛に拍車をかけたのであった。時代小説の分野の中においても、『股旅もの』はひとつの大きな主題を為すことになり、長谷川・子母沢両先覚者のあとを追って、他の作家たちの手によっても、数多く股旅小説は書かれてきたのである。」

「それほどに隆盛だった。『股旅もの』も、昭和二十年を境にして、米占領軍総司令部の命令で一時姿を消すことになった。これは『股旅もの』だけに限らず、時代小説全般が封建思想を醸成するものとして、又、刀剣を用いて人を切るということなどがもっての外…

司馬遼太郎「世に棲む日日」(週刊朝日、昭和44年2月〜45年12月)のさし絵は専太郎の最高傑作!

大胆なデフォルメを見事に決めているのは、司馬遼太郎「世に棲む日日」(週刊朝日、昭和44年2月〜45年12月)。吉田松陰と高杉晋作は共に二十代で終ってしまった短い生涯のなかに輝かしい業績を残した。そんな幕末の長州が生んだ英雄の物語。専太郎さし絵中、…

ネットで注文した笹沢佐保「日暮妖之介・暁に去る」(実業之日本社、昭和47年)が届いた。昭和47年「週刊小説」に連載されたものをまとめて単行本にしたもので、巻頭口絵8頁に岩田専太郎が描いたさし絵がついている。表紙には「付」として「岩田専太郎傑作さし絵集」とあるが、わずか7点ほどの掲載でちょっと大げさすぎないか。「週刊小説」は昭和47(1972)年2月11日に創刊されたから、創刊号から連載されていたのだろうか。帯には「紋次郎か妖之介か! 作者会心の仇討ち推理 ニヒルな浪人妖之介の孤独な秘剣」とある。

岩田専太郎:画、笹沢佐保「日暮妖之介・暁に去る」(実業之日本社、昭和47年) 岩田専太郎:画、笹沢佐保「日暮妖之介・暁に去る」(実業之日本社、昭和47年) 岩田専太郎:画、笹沢佐保「日暮妖之介・暁に去る」(実業之日本社、昭和47年) 岩田専太郎:画…

岩田専太郎の大型画集『おんな 岩田専太郎画集』(毎日新聞社、昭和46年)、『岩田専太郎さしえ画集』(毎日新聞社、昭和51年)2冊を持っているが、本日とうとう業を煮やして3冊目となる『岩田専太郎名作画集』(毎日新聞社、昭和49年)を購入してしまった。なにをそんなに焦っているのかって? 「西海道談綺」のさし絵がなかなか見つからず、清水の舞台から飛び降りるつもりで購入するに至ってしまった。B4判二重函入で、新刊本の定価は30,000円もした。こんな豪華な本を昭和46年、49年、51年と3回も刊行できると云うのは

本日は、川口松太郎と岩田専太郎が二人三脚で取組んだ「西海道談綺」を紹介しようと思っていたが、さし絵が見つからず、取り合えず「獅子丸一平」(毎日新聞夕刊、昭和29年8月〜31年9月)を紹介しよう。 「昭和20年代の初期は、時代物は封建思想を助長するも…

帰省した帰り道、通称茨城県・牛久ワインシャトー(シャトーカミヤ)へ行ってきた。無料で見学できる博物館・明治時代に神谷傳兵衛により創業された日本初の本格的ワイン醸造場は、昔の道具やポスター等も展示してあり、かなり見ごたえがある。レストランやビアガーデンなどもあり、長時間楽しむことが出来た。都心からも1時間ほどでいけるので、ちょっとした息抜きのスポットとしてお勧めです。

シャトーカミヤ 2008年6月9日にシャトーカミヤ旧醸造場施設3棟が「最初期の本格的ワイン醸造施設」として、文部科学大臣から国の重要文化財に指定された。 シャトーカミヤ 指定されたのは、「事務室」(現:本館)、「醗酵室」(現:神谷傳兵衛記念館)、「…

さし絵画家・岩田専太郎と小説家・川口松太郎が戦後に協働した新聞小説は、

・「明治美人館」(「読売新聞」、昭和22年) ・「火の鳥」(「毎日新聞」昭和25年) ・「情熱の部屋」(「大阪毎日新聞」昭和25〜26年) ・「宮城広場」(「読売新聞」昭和25〜26年) ・「振袖狂女」(「毎日新聞」昭和26〜27年) ・「皇女和宮」(「朝日新…

「ある日、文藝春秋社の雑誌『オール読物』の編集長、香西昇君が、たずねてきた。玄関で、彼の気の毒そうな顔色をみただけで、何もきかないうちに、その用向きがわかった。まっ正直な香西君なのである。『オール読物』の表紙の仕事は、私が、かなり力をいれて描いていたものだった。が、それを、他の人に替えるというのが、訪問の目的だった。」(『わが半生の記』)

「実はさし絵の仕事を、よそうかと思ったこともあった。……『蛇姫様』その他、華麗な絵を描いて、ものの役に立たない絵かきのごとく扱われた口惜しさに、無理とはしりつつも兵隊の絵を描いて、戦争末期の昭和二十年には、陸軍報道部の命令で、『神風特攻隊吉…

大正10年、鏑木清方を崇拝する画家志望の石版印刷の下絵描きをしている岩田専太郎20歳と、鷗外の作風に夢をのせ舞姫や高瀬舟の文章は暗記しているという大勢新聞に勤める文学志望の川口松太郎22歳は、いつの間にか知り合いになり、飯屋のテーブルで「浅草公園のうしろの、大溝の前の飯屋の床几に腰を下し、飯と汁のどんぶりを前に並べて、『偉くなりたいなあ』と嘆き合うのが殆ど毎日であった。……『俺の小説が売れて、お前の画が挿画に使われればいいな』空想の最後はそんな現実に落ちてくる。」(川口松太郎『飯と汁』講談社、昭和35年)

岩田専太郎:画、川口松太郎「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年) 岩田専太郎:画、川口松太郎「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年) 岩田専太郎:画、川口松太郎「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年) 岩田専太…

川口松太郎の岩田専太郎ヘの思いやりがさし絵の傑作を生んだ

山田宗睦は東京日日新聞に掲載された「蛇姫様」を見て「挿絵は岩田専太郎。華麗な作風は、その後その華麗さによってときに嫌うこともあったけれど『蛇姫様』の挿絵は、たぶん専太郎一代の挿絵史の中でももっとも艶麗であった。流れるような描線の艶冶さと、…

インターネットで堂昌一:装画・挿絵、笹沢佐保『潮来の伊太郎 大利根の闇に消えた』(読売新聞、1973〔昭和48〕年)を購入した。潮来の伊太郎といえば、1960(昭和35)年8月に発売された橋幸男が♪♪「潮来」の伊太郎〜ちょっと見なれば薄情そうな渡り鳥 それで〜いいのさ〜あの移り気な〜♪と歌う大ヒット曲「潮来笠」を思い浮かべるが、笹沢佐保の作品との関連はないのか? 歌のほうが先にあったのだろうか?

堂昌一氏をご存知ないかたも、もしかして「木枯紋次郎」(「小説現代」昭和46年)の挿絵画家といえば思い浮かべてくれる人もいるのではないでしょうか? この本は紋次郎ではないが、縞の合羽に三度笠、弓懸け(手っ甲)、脚絆にわらじ履きの股旅姿が紋次郎に…

1974(昭和49年)、恩師・岩田専太郎の死去により連載中の松本清張作「西海道談奇」(週刊文春)の挿絵を引き継ぎ、専太郎に勝るとも劣らない見事な腕を披露した。美人画で知られる岩田専太郎だが、堂昌一も艶っぽい女性を描かせたら決して引けは取らない。

堂昌一:画、松本清張作「西海道談綺」(「週刊文春」1974年) 堂昌一:画、松本清張作「西海道談奇」(「週刊文春」1974年) その後も、 1984年 森村誠一作「忠臣蔵」(週刊朝日) 1991年 杉本苑子作「汚名」(毎日新聞) 1995年 杉本苑子作「風の群像」(日本…

堂昌一氏は、「岩田先生の生前、先生の体調の悪い時に月刊『明星』や『平凡』のさしえのピンチヒッターをしたことも、いまは懐かしい想いでとなった。」(『堂昌一 さし絵画集』平成4年)と記しているように、専太郎のさし絵のピンチヒッターをするほどに認められていたようだ。

堂昌一:画、笹沢佐保「日暮妖之介」(「週刊小説」1972年)

帰途、京王デパートの古書市に立ち寄り、「読切傑作集」(双葉社、昭和32年)など、これから取材を掛ける予定の堂昌一氏や濱野正雄氏の挿絵が掲載されている雑誌を数冊購入。

濱野彰親:画、伍堂徹三「後部標識異常なし」(「別冊読切傑作集」双葉社、昭和32年) 濱野彰親:画、伍堂徹三「後部標識異常なし」(「別冊読切傑作集」双葉社、昭和32年) 濱野彰親:画、伍堂徹三「後部標識異常なし」(「別冊読切傑作集」双葉社、昭和32…