肉筆が、版芸術より一段上のものだ、と思いこむ迷信をまず打破しよう。ロートレックの油絵にはいいものがある。然し、油絵よりもすぐれた石版画があることも忘れてはならない。或る場合、彼のポスター画の方が、今日、私たちの気持によりぴったりする。歌麿の肉筆と、版画でも、同じことがいえる。夢二の肉筆と挿絵にしても同様だ。


ところが木版と凸版とでは、木版の方が手工業的不自由があるだけ、雅味がでてくるのは当然だ。然し、だからといって今日、発行部数の多い雑誌の挿絵に木版を使うわけにもいくまい。かりに木版で彫っても、凸版にとり直して、紙型をつくることになる。


してみれば、刀の代わりに、筆でいかにも彫ったように描くことも出来る。死んだ谷中安規は、ケント紙を墨で塗りつぶし筆にホワイトをつけて、空間を埋めてゆき、黒い線を残すことによって、いかにも彫ったかの如き感じをだすことの妙手であったが、今日の雑誌が凸版を使用するなら、凸版そのものを自己薬籠中のものとして、大いに版効果をあげてこそ、挿絵は生きてくるであろう。


在巴里の長谷川潔は、フランス政府からレジオン・ド・ヌールを貰ったが、決して肉筆画で、この栄誉を得たのではない。エッチングである。彼の出発は、詩集の挿絵であったことを、想起しよう。凸版で、フランスのこの輝かしい勲章を貰うこともあながち
痴人の夢ではない。フランスの文芸図書を見よう。実に絵入りが多い。芸術至上主義ゴーチェの詩集など、絵だらけだ。モーパッサンの小説集だって、何枚、絵がはいっているかわからない。


絵入小説は、低俗でカットだけつけた小説が高級だと思っているのは、十四等国の編集者だけである。詩だろうと、純文学(どうも私はこの言葉を好まない。これは本絵崇拝と同様の迷信的名詞である。小説に純も不純もあるものか。)の小説であろうと、絵はないよりはあったほうがよろしい。勿論、いい絵であることを前提として──。


ところで挿絵画家が、娯楽雑誌だけを殆どその活躍舞台としているのは、編集者の偏見がそうさせているのであろうか。いやいや罪は画家自身にもある。かりに私がA雑誌の編集者だとしても、Z誌に出ているような低俗な絵をそのまま採りあげる勇気はない。やはりA誌にふさわしい画家をさがすであろう。そして恐らく挿絵画家を見廻して、首をかしげるにちがいない。


挿絵画家諸君は「待ってくれ、あれはZ誌の要求に妥協した絵であって、僕の本当の絵ではない。そんなもので評価されてはかなわない。」
 と反駁するであろう。然し、獅子は小兎を打つにも全力を用いるものである。絵がよければ、たとえそれがその雑誌の性格より高級であっても、編集者は必ず、有難く頂戴する筈である。私は日本の編集者の教養を固く信ずる一人である。日本は断じて十四等国ではないのだから──。(つづく)