2009-06-01から1ヶ月間の記事一覧

1861(文久元)年に「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派通信員として来日し、「東禅寺浪士乱入の図」を水彩画で描き、近代水彩画と日本を初めて出会わせた人物として知られる、イギリス人画家チャールズ・ワーグマンのカラーの絵が掲載されている文庫サイズの本、不破章『水彩画入門』(保育社、1976〈昭和51〉年)を見つけた。

ネットの古書データをみてみると昭和51,52,53,56,59年刊等がヒットし、小さな判型の入門書であるにもかかわらず、良く売れた本であることが分る。 チャールズ・ワーグマン「風景」 著者の不破章(1901〜1979)は、石井柏亭に師事し、日本水彩画会理事長…

最新の水彩画

大貫伸樹「酒袋」 大貫伸樹「ブリキの戦車」

外国での水彩絵具はいつごろから普及し始めたのかというと、斎藤泰三『英国の水彩画』(彩流社、1987〈昭和62〉年)によると「十八世紀も八〇年代に至りリーヴス兄弟が固形絵具を発明し、その改良の口火が切られることになった。十九世紀に入ると、一八〇五年にロバートソンなる絵具屋が、触媒としてのこれまでのアラビアゴムの中に、粘着性を与えるために蜂蜜を一部混ぜることを考案した。固形絵具は、年数が経ったり暑い気候のもとでは、乾き切って、なかなか水に溶けなくなったり、日々が入って砕けて粉末になって散ってしまうという欠点が

さらに「改良の次のステップは、この棒状の固形絵具を、現在のように小さな皿に分割しておくことであった。これにより、絵具箱にも入りやすくなって、絵具の容器として小さな磁器製の皿なども作られた。ガーティンの師のデイズは、厚紙で作った小さな型の中…

明治末期に、水彩画のブームがやって来るが、ブームが生まれるには、どうしても誰でもが画材を容易に入手できるような環境が整わなければなければならない。「明治十年から十二年頃までには、絵具に限らず、種々の分野で国産品が登場しはじめている。たとえば、明治八年頃には画用紙が王子製紙によって製造され始め、明治十年には石膏モデルも……東京大学理学部構内工作場で各種の理科実験機材・教具・模型等とともに製作され供給されるようになった。同じ年には銀座の小池卯八郎によって、本格的な西洋製造法に基づく鉛筆が鹿児島産の石墨(グラフ

「深川富岡門前町に、伊藤藤兵衛が彩料舗を開いて、ワットマン紙やニュートン絵具を売るようになったのは明治十年のことであり、……画学生には高嶺の花であったのが、明治十二年、村田宗清(安七)がフォンタネージが使った絵具をもとに研究して、国産絵具の…

神奈川県立図書館から講演会の依頼があり、10月25日(日)13:30〜「奇抜な素材の『美しい』本〜斎藤昌三のこだわり」を開催予定

今まで調べた斎藤昌三の話や手持ちのゲテ本をゼ〜ンブ持っていきますので、ぜひご参加下さい。

私の最近の水彩画

先週から、毎日のように1枚仕上げている。朝起きて3時間、寝る前に2時間くらい絵筆をとることにしている。 大貫伸樹「うちわ」09.6 大貫伸樹「朴葉」09.6 大貫伸樹「紙風船」09.6 大貫伸樹「ブリキの飛行機」09.6 本日描き始めた「ゼンマイ仕掛けのブリキの…

三宅克己は徳島県で生まれ、明治14年、7歳の時に日本橋区浜町に引っ越しをする。その引っ越し先は、「門の前通りが俗に狐横丁といわれて、昼でも人通りの稀な、ほんとうに寂しい往来であった。それでも同じ通りのうちに、油絵の元祖といわれる高橋由一先生の画塾があり……」(三宅克己「思い出づるまま」)と、高橋由一の画塾の近くだったようだ。

そのことが三宅にとっては、夢を広げるきっかけにもなったようで、「私の住んでいた狐横丁の入り口に、油絵の画塾があった。それは、高橋由一先生の経営されていた、確か天絵学舎といったように記憶しているが、大勢の書生がみな油絵を習いに来ていた。毎週…

「……明治二十四年春には、イギリス人水彩画家ジョン・バーレイJohn Burleyが来日している。……日本各地で写生した油彩・水彩の風景画を芝の慈恵病院で公開し、この展覧会での水彩画を洋画家の安藤仲太郎が新聞評で激賞したということであるが、前年から洋画家を志して明治学院を中退し、大野幸彦塾に通うようになっていた三宅克己はこれを観て、『忽然自分の進む可き世界の入り口が目前に開かれたやうに思ひ』『全く狂気の姿でその展覧会の閉づる時間まで、飲食を忘れて見入った』という。(『近代の美術 日本の水彩画』第58号、至

三宅克己「ニューへヴァンの雪」水彩36×26.5 1898(明治31)年 「明治三十年六月、渡米した三宅は九月からニューへヴァンのエール大学付属美術学校に学んだ。一日二時間、レストランの手伝いをして生活費を得、午前中は学校で、モデルを描き、午後は郊外写生…

1)紫派(ムラサキハ) 黒田清輝を中心として形成された明治期の洋画の傾向とその画家たちを指す。ラファエル・コランに学んで1893年帰国した黒田は、印象派の技法と伝統的な主題を折衷したサロン系の外光表現を日本に伝えたが、それまで日本の画壇は脂派と呼ばれる褐色を基調として明暗のコントラストを鳶色と黒で描いた暗く脂っぽい表現が主流となっていたため、黒田の明るく感覚的な外光描写は若い画家たちに清新な感動をもって迎えられた。黒田は久米桂一郎とともに天真動場、次いで白馬会を創立し、また東京美術学校教授として後進の指導

久米桂一郎「風景」37.5×56 明治20年代末

明治美術会

明治美術会(めいじびしゅつかい)は、明治22年(1889年)に発足した日本国最初の洋風美術団体。日本における最初の国立美術教育機関である「工部美術学校」は、1876年(明治9年)に発足したが、財政事情の悪化に加えて国粋主義の台頭を背景に1883年(同16年…

工部美術学校(こうぶびじゅつがっこう)は、日本最初の美術教育機関であり、……1876年(明治9年)工部大学校の附属機関として「工部美術学校」が設置された。西欧文化の移植として当然お雇い外国人が起用されたが、全てイタリア人であった。美術の先進国として認知されていたフランスではなく、ルネサンス美術の中心地であるイタリアから招聘された点が興味深い。1883(明治16)年に廃校。

「画学科をアントニオ・フォンタネージ、彫刻科をヴィンチェンツォ・ラグーザが担当し、また二人と一緒に招聘されたヴィンチェンツォ・カペレッティが装飾図案、用器画を担当した(カペレッティは参謀本部庁舎の設計を手がけるなど工部大学校の建築科にも関…

水彩画の技法が伝承されるようにはなったが、絵具はどんなものを使っていたのだろうか。勿論外国にはあったのだろうが、そんな輸入品の絵具を、簡単に入手できる時代だとは思えないが……。

朝のテレビ番組「ちい散歩」で、私にとっては、予備校通いの頃を彷彿させる懐かしい月光荘を訪ねていた。月光荘は昭和15年に独自の画材を発売し特にコバルトブルーは鮮やかな色彩で話題になったという。これは昭和の話ですがね。 さて、明治時代の水彩絵の具…

1876(明治9)年に創立した工部美術学校の指導者として、イタリアの風景画家アントニオ・フォンタネージュAntonio Fontanesiが来日し、それまでワーグマンの絵を見様見真似で描いていた水彩画が、本格的に教授されることになった。

フォンタネージ画「建築物写生方式」18.3×23.7 1913年

木下杢太郎は「故小林清親翁の事」に「狩野風画師にして且つ初めて我国に写真術を伝へたる下岡蓮杖に就いて正式に写真術を習得した。英人ワグマンに就いて洋風油彩画を覚えたのは其後である。」(吉田漱編『最後の浮世絵師小林清親』蝸牛社、昭和52年)と記している。下岡蓮杖に入門し写真術を習ったのも1865(慶応元)年で、五姓田義松、ワグマンにもこの年に師事している。

小林哥津「〈清親〉考」には「横浜にワグマンを訪ねたのは、暁斎との交際がはじまる前かもしれない。蓮杖叉は原胤昭から紹介されてはあったが、いかにもいかめしい英国領事館の晢の扉をくぐるのはずいぶん勇気がいったろう。横浜絵もまんざら絵空事じゃあな…

絵画専門の画家ではなかったが、その技術は当時の洋画を志望する青年たちを魅了するには充分だった。高橋由一、五姓田義松、二世五姓田芳柳、山本芳翠らが、教えを受けた。小林清親、下岡蓮杖、高橋源吉、田村宗立、渡辺幽香などもワーグマンについて教えを受けている。

ワーグマンは、横浜に定住し、日本人・小沢カネを娶り、一子をもうける。画報記者としての本業のかたわら、外国人旅行制限がなくなると、地方に足を伸ばし多くのスケッチを残す。「下仁田風景」(1870年)は、そんな時期に描かれたのであろう。 (明治3(187…

この頃描いた水彩画が、日本で最初に描かれた水彩画ということになる。

ワーグマンは当日の体験を「IRN」に 「玄関を騒々しく繰り返し叩く音に目が覚めた。どこかに火事があるか、あるいはちょっとした喧嘩程度だろうと思っていたため、はじめはその騒音を気にとめなかったが、しばらくすると、戸を叩く音は、マスケット銃の発射…

「イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ」の画報記者ワーグマンは長崎からの長旅を終えて、7月4日、当時イギリス仮公使館となっていた品川の東禅寺到着。翌5日夜半、水戸浪士による東禅寺襲撃事件を床下に避難し腹ばいになって隠れて目の当たりに目撃し、動乱期の日本の状況を本国に描き送った。

どちらもワーグマンによる「東禅寺浪士乱入の図」だが、何点か「東禅寺浪士乱入の図」を描いたのだろう。よく似た絵だが、よく見ると全く別の絵である。 ワーグマン画「東禅寺浪士乱入の図」1961〈文久1〉年) ワーグマン画「東禅寺浪士乱入の図」(1961〈文…

日本に最初に水彩画を伝えたといわれるチャールズ・ワーグマンは、なぜ日本にきたのか。まさかわざわざ水彩画を伝えに来たわけではないだろうから。

アヘン戦争後約20年経過して、1857年北京協定が結ばれる。当時退役陸軍大尉であったワーグマンは、1857(安政4)年10月8日に起きたアロー号事件を取材する為に、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(以後ILN)の特派員として広東にやってきた。 「…

日本最初の水彩画はワーグマン「浪士乱入図」38.5×54.5(1861〈文久1〉年)というのが、定説となっているようだ。

ワーグマン「浪士乱入図」38.5×54.5(1861〈文久1〉年) 水彩画がいつから描かれるようになったのかということを調べる前に、水彩画とは何かについて定義しなければならない。 匠秀夫編「近代の美術58 日本の水彩画」(至文堂、昭和55年)によると「水彩画を…

私が知っている昔の水彩画というと、浅井忠の作品くらいかな。それもモノクロの写真で知っている程度だ。これまでは絵を見る時に、いちいち水彩画なのか、油絵なのか、などとは考えもしなかった。

昨年から「印刷雑誌」表紙を描かせていただけるようになってから、初めて水彩画というものに興味を持ち始めたのだが、「画家はどんな水彩画を描いているのだろうか」という、描き方の参考例として見たくなっただけであり、HOW TO本でもよかったのだ。 大貫伸…