2010-06-01から1ヶ月間の記事一覧

出版美術家連盟1955年鑑より

上田次郎:画(『出版美術家連盟1955年鑑』昭和30年) 江川みさを:画「かえで鳥の歌」(『出版美術家連盟1955年鑑』昭和30年) 岡崎武彦:画(『出版美術家連盟1955年鑑』昭和30年) 岡 友彦:画(『出版美術家連盟1955年鑑』昭和30年) 岡本爽多:画(『出…

以前から探していた「出版美術家連盟1955年鑑」を、昨日行われた日本出版美術家連盟「百」展のオープニング・パーティの席に、会長の濱野彰親さんが持ってきてくれた。先日お借りした「さしゑ」5冊をお返しして、代わりにこの本をお借りすることが出来た。これで、日本出版美術家連盟の1955年当時の会員名が殆ど分かりそうだ。

『出版美術家連盟1955年鑑』(出版美術家連盟、1955年)275×243mmもある本なので、私のスキャナーに入らず下3cm位切れてしまう。 『出版美術家連盟1955年鑑』あとがき 「あとがき」には「二百以上を有し」とあるが、名簿を数えると会員数は230名であった。 …

銀座、サロン・ド・G(ジー)にて6月28日(月)〜7月3日(土)まで開催される日本出版美術家連盟展に、私も出品することになった。明日、搬入する。会場へは28日(月)と3日(土)に行く予定。

「粋美挿画」の編集に誘われて入会したのだが、いつの間にか、展覧会にまで出品することになってしまった。

第41回出版美術家連盟展「百」受賞者たち。今日28日(月)5:00〜オープニング・パーティが開催されるが、毎年、作家や出版人など沢山のかたが参加して賑やかだそうだ。私は始めての参加ですので、楽しみです。

沢登みよじさん 大西將美さん 岐部たかしさん 石川吾郎さん 中一弥特別展示コーナー 会場風景 会場風景 初めての出品となった私の作品(*受賞作ではありません)。

「さしゑ」4号、巻頭口絵

濱野政雄:画(「さしゑ」4号巻頭口絵、昭和31年6月)

「さしゑ」紙上展は毎回、掲載される挿絵画家の選択が素晴らしい。何のしがらみもなく、毎号その時期の最も旬な画家たちが選ばれている。

風間完:画「原色の街」(「さしゑ4」挿美会、昭和31年6月) 「吉行淳之介氏の作品、原色の街のさしえです。去年の暮れ鳩の町えスケッチに行って三四枚描いてきた内の一枚です。吉行君とは永いつきあいですから、彼の気脈というようなものを私はよく感じとる…

細木原青起「挿絵随想」

細木原青起「挿絵随想」(「さしゑ」3号、昭和31年2月)

水沢澄夫「さしゑ時評」

水沢澄夫「さしゑ時評」(「さしゑ」3号、昭和31年2月)

濱野彰親さんから「さしゑ」を5冊お預かりしてから、多少の義務感を感じ、何とか全ページを後世に残す方法はないかと考え、取り合えずブログに掲載を始めてみた。が、スキャンした画像データを掲載するだけなら、なんとか、やれそうなのだが、テキストデータに起して掲載するとなると、仕事の合間の作業にしては大変過ぎて、とても出来そうにない。おまけに返済の期日が今週いっぱいと迫ってきた。そこで、これからは画像で出来るだけ沢山アップしておき、あとで、時間がある時にタイプアップしようと思って、今回からはとりせず画像だけをアップし

「さしゑ」2号から編集人が北原恵太にかわり、毎号工夫を凝らして読者を楽しませようとしている。3号に掲載されている「挿絵・漫画家・出身地一覧」地図も、大変な苦労をして編集をしている。出版美術家連盟、漫画集団、独立漫画派、エンピツの会、挿美会からアンケートで集めたデータを元にして作られたものだ。

「挿絵・漫画家・出身地一覧」(「さしゑ」3号、昭和31年)、文字が殆ど見えないだろうから、関東だけでも拡大してみよう。 「挿絵・漫画家・出身地一覧」(「さしゑ」3号、昭和31年)部分 私の出身地・茨城県からは大森弓麿、小松崎茂、佐川美代太郎、矢崎…

「さしゑ」3号(挿美会、昭和31年2月)の紙上展は、1頁に挿絵画家たちの挿絵1点とアトリエ訪問風の写真を掲載し、メッセージを添えた内容で、8頁構成になっているいる。今年99才の仲一弥さんも、1926年生まれで84才の濱野政雄さんも、掲載写真ではみんな若い!

仲一弥:画「遊女小柴」(「さしゑ」3号、挿美会、昭和31年2月) 「土師清二氏の小説『つばくろ権八』から、一番濃厚な場面を描いた。恋人の白井権八と久々での逢瀬に、遊女小柴はすっかり情熱をたぎらせ、そのあと死んだようになっている。土師さんは名分で…

岩田専太郎:画、吉川英治『鳴門秘帖』が、新聞掲載された時の挿絵は、ありがたいことに単行本として吉川英治『鳴門秘帖 上下巻』(中央公論社、昭和37年)が刊行されたときに、再録された。円本全集として知られる『現代大衆文学全集9吉川英治 鳴門秘帖』(平凡社、昭和3年)に掲載されたたときには描き直して掲載されたので、新聞掲載時の挿絵と改定された挿絵の同じ場面と思われる所を探して比較してみよう。

岩田専太郎:画、吉川英治『鳴門秘帖』(中央公論社、昭和37年) 岩田専太郎:画、吉川英治「鳴門秘帖」(『現代大衆文学全集』中央公論社、昭和37年) 岩田専太郎:画、吉川英治『鳴門秘帖』(中央公論社、昭和37年) 岩田専太郎:画、吉川英治「鳴門秘帖」…

三上於菟吉「日輪」(大阪毎日新聞、大正15年)で新聞小説挿絵家デビューした岩田専太郎は、大正15年(1926年8月)作家デビュー間もない吉川英治を一躍大人気作家に押し上げた時代小説「鳴門秘帖」(大阪毎日新聞連載)挿絵を担当。この「鳴門秘帖」の挿絵は、その後「現代大衆文学全集9 吉川英治集」(平凡社、昭和3年、に掲載される時に描き直されている。昭和41年講談社から刊行された『吉川英治全集2 鳴門秘帖』でも、挿絵の依頼を受けたが、断念せざるを得なかった様子が、「月報6」(「吉川英治全集」講談社、1966.12

「月報6」(「吉川英治全集」講談社、1966.12)

「現代新聞挿絵紙上展」(「さしゑ」第2号、昭和30年8月)は、豪快に22頁にわたり新聞小説挿絵が掲載されている。新聞小説挿絵の人気と、重要性がいかに大きなものであったかを知らせてくれる企画でもある。今では、中々手に入らなくなってしまい見ることも難しい「さしゑ」なので、ここに誌上展全ページを転載させてもらい、再現してみよう。

石井鶴三:画、吉川英治「宮本武蔵」朝日新聞 海音寺潮五郎「蒙古来る」読売新聞 長谷川伸「明治の鼠」読売新聞、(「現代新聞挿絵紙上展」、「さしゑ」第2号、昭和30年8月) 伊勢田邦彦:画、田村泰次郎「春の座席」東京タイムズ、(「現代新聞挿絵紙上展」…

「さしゑ』創刊号には、沢山の賛助会員がいた。有志がお金を出し合って作ったにしては、カナリ手が込んでいて、多くの人から原稿を集めているが、稿料などをどうしていたのだろうかと心配していたが、やはりしっかりとスポンサーをつかんでいたのか。さすがに用意周到でぬかりがない。

「★賛助会員名簿★」「さしゑ』創刊号、昭和30年 「季刊誌『さしゑ』発刊に当たり、左記各社から賛助会員として絶大なる御援助をいただきましたことを誌上をかりて厚く御礼申し上げます。同人一同、深く責任を痛感すると共に、御期待に添うべく努力致すつもり…

またも転載で申し訳ないが、今回は濱野政雄さんの「眼で物を嗅ぐ」(「さしゑ」創刊号、昭和30年)「1 ある人が僕にこう云つた。『挿絵は小説を読んで、その場面を描けばいいのだから楽ですね。小説は創作だから大変ですよ』と。このくらい挿絵画家をバカにした話はあるまい。小説と云うものは、我々とすれば単に題材を提供してくれる丈のもので、それをどうひねくるかはその挿絵画家の問題なので、映画の一カットとは、わけが違うのである。

ここに二人の男女が、銀座あたりで逢ったとする。それを絵にする場合、上から見た方がいいか、横からのほうがいいか、夫れとも風景を主にして人物を小さく描くとか、絵としてのねらいをどこに持つていつて、余白をどの程度とつたらいいとか、コンポジション…

同じ頁に記載されている、宮本幹也「挿絵という名画」も紹介しよう。挿絵の方が小説より勝る例を「挿絵」ならぬ「挿小説」として提示しているのが面白い。

宮本幹也「挿絵という名画」(「さしゑ」創刊号、昭和30年) 「自分の小説にはさもあればあれ、正直に言つて小説家は先ず小説を先に読むだろうと思う。ということは必ずしも小説が主で絵が従だと言うことにはならない。だが、率直に言つて、絵から先に見る程…

「さしゑ」創刊号(昭和30年)に「ベスト・テン──編集者をてこずらす作家と挿絵家── 但しクラブ雑誌界における十傑(回答五社)」という面白い記事が掲載されていたので再録してみよう。それぞれのトップは岩田専太郎と山手樹一郎だ。編集者を困らすわがままをいうのは、みずからが売れっ子であることを認めている証とも言える。つまり、人気作家と挿絵家のベスト・テンともいえるデータでもある。

この「さしゑ」を提供して頂いた濱野政雄さんは5位に選ばれている。昭和40年代には毎週7〜8紙誌の連載を抱えていたというから、その多忙ぶりからくる自意識もかなり過剰だったものと推察されるが、今度お会いしたときに、伺ってみよう。 只今好評発売中の日…

清水三重三が文中で「六興出版の挿絵全集の付録誌で、石坂洋次郎氏が挿画家の立場に同情ある一文を寄せて居られる。……感激した。」と書いている付録誌「現代名作名画全集」(六興出版社、昭和29年)月報第一号を見つけたので、これも、一部読みやすいように現代文に変更して全文掲載してみよう。

石坂洋次郎「挿絵と作家と」(「現代名作名画全集」月報第一号、六興出版社、昭和29年) 石坂洋次郎「挿絵と作家と」 「 多数の読者を対象とする雑誌や新聞に掲載される小説には、たいてい挿絵が入っているが、こういう場合の挿絵は、刺身に添えたワサビ以上…

良い挿絵を求めるには

良い絵、悪るい絵、上手、下手、時間を掛ける絵、早くできる絵、これ等への報酬が、開きはあろうが、ホンの僅かの差の、ミソもクソも一緒くたの均一扱い、骨折る奴はバカみたいになり、これが良心的な仕事を阻むこと尠なからず、とおもいます。 そんなことに…

清水三重三が「さしゑ」創刊号に「挿美会のことなど」と題して、挿絵論等に交えて、当時の挿絵画家を取り巻く様々な環境似ついて書いているので、テキストに起してみよう。

清水三重三「挿美会のことなど」(「さしゑ」創刊号、昭和30年) 「挿絵を画く新進が集って「挿美会」を結成し、良き挿絵を作る目的にて、相互の親睦、研究、啓発に資するという。誠に羨ましい事です。更に、挿絵と挿画家の位置を、新しく世衆に認識させよう…

これが13名の挿美会同人の顔写真だ。

挿美会会員(「さしゑ」創刊号、昭和30年、撮影:野瀬光一) 後ろ左から、 矢田貝寿広、土端一美、加藤敏郎、山田彬弘、濱野政雄 真ん中左から 成瀬一富、下高原健二、平野林作 前列左から、 伊勢田邦彦、上西憲康、岡本爽太、由谷敏明、森下和男この13人の…

「さしゑ」創刊号(昭和30年)には挿美会同人13名による「挿絵紙上展」が掲載されている。

伊勢田邦彦:画(「さしゑ」創刊号、昭和30年) 「締切ぎりぎりに近い原稿を渡され、度々編集者を泣かせながら不本意な状態で絵を渡す習慣を身につけたことは恐ろしい。最初この紙上展は全部新作ということであつたが、結果はこの通り新作、旧作が混つてしま…

「さしゑ」創刊号の巻頭に下高原健二が「創刊について」に創刊の意図や使命感などについて書いているので、再録してみよう。

「さしゑ 1955年・第一号 今日、数多くの雑誌が刊行されていますが、さしえの為の雑誌が一冊も見当たらないということは、我々挿絵画家にとつて実に淋しく張り合いのないことです。それ程に挿絵が無価値であり、論議の外にある性質のものとは考えられません…

「さしゑ」創刊号110pには、13名の「挿美会」同人の外に、70名の「寄稿家名簿」が掲載されている。この幅広いジャンルからの寄稿者達が自費出版の挿絵啓蒙書の執筆陣とは、驚かされる。ちょっと大変な作業だが、タイプアップしてみよう。

「寄稿家名簿」(「さしゑ」創刊号110p、昭和30年4月1日) 有木 勉………(編集者) 有馬稲子………(映画女優) 伊藤文八郎……(編集者) 今村恒美………(画 家) 岩井泰三………(画 家) 磐前半五郎……(評論家) 岩田専太郎……(画 家) 岩田吉夫………(画 家) 宇井無…

有志が集まり、身銭を切って挿絵界のための啓蒙書を目指して出版に踏み切ったのだろうか。自費出版であることからも下高原たち13名の「挿美会同人」たちの高い見識が感じられ、今更ながら拍手を送りたい。、昨日も掲載したが、敬意を表して再度13名の名前を掲載しよう。

◆伊勢田邦彦 ◆濱野政雄 ◆加藤敏郎 ◆土端一美 ◆成瀬一富 ◆上西憲康 ◆岡本爽太 ◆山田彬弘 ◆谷田貝寿広 ◆由谷敏明 ◆下高原健二 ◆平野林作 ◆森下和男 「自選画集1」では、最初に紹介されたのは岩田専太郎の挿絵だ。専太郎は同人ではないが、顧問のような存在だっ…

中村嘉人『大衆の心に生きた昭和の画家たち』(PHP新書、2007)で読んで、その所在を探していたが、古書市でもインターネットにも全く手がかりがなかった冊子「さしゑ」。昨日、日本出版美術家連盟「粋美挿画」2号の編集会議があり、会長の濱野彰親さん、プロデュサーの星野恵美子さん、沢登みよじさん、本田未禧さんが喫茶店「西武」に集まった。そのとき、濱野さんが「さしゑ」という冊子を5冊持ってきてくれた。何とこの冊子こそが、私が探していた「さしゑ」だった。思い掛けなく、ものすごいお宝に出会うことが出来た。

「さしゑ」創刊号(挿美会、昭和30年4月1日、非売品)、「さしゑ」2号(昭和30年8月20日、定価150円) 「さしゑ」3号(昭和31年2月20日)、「さしゑ」4号(昭和31年6月20日) 「さしゑ」11月号(昭和31年10月1日)、この本だけが月号表示になっており、第二…

余談だが、齊藤金鴬「床下小函」について調べようとして、Googleで検索をしてみたら、執筆途中で保存したらこの頁が数分と経たないうちにトップ画面の一番最初に掲載されていた。Googleのデータ蒐集力の威力をまざまざと見せつけられた思いだ。おそるべし。

親友であり、編集者の川口松太郎は専太郎のプラトン社勤務の頃について「岩田と私は大正十二年に大阪へ行って、私は苦楽という雑誌の編集に当たり彼はその挿絵を描いた。新しい形の雑誌だったので岩田も苦心して従来の自分ではない絵を描きたいという。ちょうど自分の手許にビアズレーの挿絵画集があったので、それを示したところが、彼は即座に膝をたたいて『これだこれだ、自分の求めていたものもっこれだ、いいものを見せて貰った』と喜び、ビアズレーを和風化して新形式を作ったのが苦楽の挿絵だった。これが非常に評判になって彼は一躍挿絵界の

これで彼の名声は定まって挿絵界の第一線に飛び出したが、当時の彼の絵は青年らしい覇気に溢れビアズレーに発した形式が迎えられて、各雑誌から引っ張り凧になり、名声は一挙に上った。私は一介の雑誌編集者にすぎないが、彼は新聞雑誌の人気者にのし上がっ…

岩田専太郎は1919 年(大正8年)12月、父親の友人・吉田六に勧められ「講談雑誌」を発行していた博文館・生田調介を訪ね、挿絵画家として採用される。1920年(大正9年)19歳の時に「講談雑誌」3月号に掲載された一竜斎貞山「音羽屋火事」と齊藤金鴬「床下小函」で挿絵画家としてデビュー。

岩田専太郎:画、一竜斎貞山「音羽屋火事」(「講談雑誌」3月号、1920大正9年) 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に罹災し、京都に転居、大阪にあった中山太陽堂(現クラブコスメチックス)の経営する広告・出版社プラトン社が雑誌「苦楽」を創刊するこ…