近現代挿絵に関する古い文献等は少なく、資料集めが大変。そんな中「さしゑ」4冊は昭和30年発行当時に活躍していた12名の挿絵画家たちによって編集・執筆された大変ありがたい貴重な資料だ。しかしこの「さしゑ」そのものが非売品だったため発行部数が少なかったものと思われ、なかなか手に入らない希少な資料でもある。私がここにネット復刻しようとしているのは、そんな貴重な資料を広く公開して共有し、また後世に残したいと思うからだ。今回の文献も、今では使われなくなった業界用語などが出て来て、大変に興味深い。


今回は細木原青起「《半世紀前の回想》木版から凸版への転換期」(「さしゑ」2号、挿美会、昭和30年8月)を転載して紹介しよう。


僕は別に挿画や漫画家になるつもりで画かきを志したのではなかったが、手ほどきをして呉れた先生が地方新聞の挿画を描いて居たのと飯の喰い始めが新聞だったので、一方には本格画の野心を持ちながら自然板下画の道を歩くことになった。


 明治三十九年京城日報が創刊され、僕の兄が記者として関与した関係で未熟な僕が引っ張り出され、三年間仕事をしたが、まだ勉強中の僕には刺激のない朝鮮には倦怠を覚えたので四十二年の春東京へ引き上げた。偶ま朝鮮で親友になった小野賢一郎が一ト足前に上京し毎日電報(後に東京日々新聞となる、今の毎日新聞)に居たのを訪問すると『俺の新聞に入らぬか』と薮から棒の話に、元より生活の糧を探していた折柄渡りに船と入社して八年居たがフリーで仕事をしたくなったので大正五年一杯を以って退社した。


と途端に中外商業新聞(今の日本経済新聞)に居た親友大谷碧雲居が『出社しなくても好いからオレの社の嘱託になれ』ってことで此の社で十五年間小説の挿画やカットを担当した。すると昭和七年朝日新聞に居た坂崎担博士が来て、大阪朝日の嘱託になって呉れとの交渉に余程考えたが、意を決し中外商業の了解を得て毎月十日間程度宛大阪へ通う事にした。


しかし毎月の往復は中々面倒臭いので是れは一ヶ年で辞退した。是れで新聞専属の仕事というものは終止符を打ったのだが、雑誌方面は明治四十二年以来トボトボと歩き続けた。(つづく)