今回の小泉純「新聞小説の挿絵」は、「さしゑ」2号(挿美界、昭和30年8月)に掲載されていたものを転載させてもらう。


今日、普通一般の日刊紙で、小説を掲載市内新聞の存在は考えられない。
 これだけでも、新聞に於ける小説の地位と、その重要性を推察されることができる。
 しかも、それらの小説には、必ず挿絵が配されている。戦前には、挿絵なしの小説が一流紙に掲載されたこともあるが、現在では、殆ど皆無である。
 従って、新聞小説は、必ず絵入小説だといってよい。


 昔は、ノイローゼの人も少なく、のんびりしていたし、ニューズ面も、やれ○○事件、××事件と、読者を唖然たらしめるような、戦慄すべき事故が連続的に突発しなかったから読者は、心しずかに新聞小説を楽しむことができた。絵がはいっていようがいまいが、小説の筋と主人公の動きを読みとるだけの余裕があったのである。


ところが、現在では、絵のはいらない新聞小説など、掲載したところで、誰もよまないであろう。ギッシリ活字だけ詰まったのを見ただけで、ええ面倒くさい、そっぽを向く人間の方が多い。


 ここに於いて、当事者側が、小説そのものの面白さを要求すると同時に、何よりも、その小説を読まずにおられなくなるような、魅力ある挿絵を望むのは当然である。
 私は他に道楽もないので小説を読むのが好きだが、その私にしたところで、現在購入している全ての新聞の小説を、ことごとく読むような重労働はめったにしない。


 毎日毎夕、挿絵だけ眺めて、その挿絵に心ひかれると、その日の小説を読む。読んで、これは、と興味を感ずると、はじめて、遡って数日分を読む。それだけで終る場合もあるし、つい誘われて、最初から読み直すこともある。
 おかげで新聞はすてないから溜まる一方、床が重さで、北の方に沈下しはじめたので、そろそろ処分を考えている。


 ということは、私にとって、作家のネームバリューよりも、一枚の画家の絵の方が、その小説に対する魅力を感ぜしめることを意味している。
 だから、どんなにうまい小説でも、もし挿絵がダメだったら、読者から棄てられるであろう。挿絵画家の責任、実に大きなり、と申すべきである。
 そのせいか、ある画家は「新聞小説の挿絵を書くことは男子一生の本懐である」と私にいった。
 まことにその通りだとおもう。(つづく)