内田巖:画、徳田秋声「縮図」
さしゑは一作品ではなくてマスプロによって直接大衆によびかけることのできる絵の一種、とことわるまでもなく、樹分それの専門家として立っているものだし、立たねばならぬものだと思います。思うようになりました、と言った方がいいでしょう。いつころからだったか……。それ以後はむしろ、さしゑ画家、カット画家、漫画家、童画家、版画家などのしごとはおのおの独立した専門分野の仕事であるべきで、もちろんそれらの人々がタブローを描いていけないなどということはあり得ませんが、すくなくともタブロー描きに対してひけめを感じたりする必要はあるべきでないと思うようになりました。
中でさかさの順言でいうと版画家、童画家、漫画家は、インフェリオリティ、コンプレックスというようなものをもっていたかいないかは別として早くから独立の専門分野をおのおのひらいていましたが、いちばんおくれたのがさしゑとカットを描く人たちの独立だったでしょう。岩田専太郎はじめたくさんいるじゃないかと言っても、それはちがうのです。自他ともに職人意識みたいなものがこびりついているからなのです。(続く)