しかし、挿繪家の創作態度がたとへどんなであろうと、挿繪はあくまで大衆的であることを忘れてはならないと思ふ。大衆的であるとあるといふのは、どんな人にも好感をもたせるやうな線の美しさ、リズムの美しさ、人物の顔や容(かたち)の綺麗さを稱するのであらう。繪の綺麗であることは挿繪家の第一義にせねばならぬことゝ思ふ。


製版技術も印刷技術の進歩につれて、発達して来てはゐるが、まだまだ進歩の余地はあるであらう。しかし挿繪家としては、印刷用紙や印刷術や、印刷技術に制約された範囲内で技巧を駆使し効果をあげなければならないのである。


以上述べたやうに挿繪家は、制作の速度、作品の廉いこと、大衆的でなくてはならぬこと、印刷効果を考えねばならないこと等々の種々な制限をうけて作品を発表せねばならないのである。美術家としての思ひの侭に彩管をふるって、展覧会の繪を制作するやうな譯には行かないのである。


諸君がかうした苦心のある挿繪家の立場を理解していただきたいものである。幸ひ、本全集の讀者諸君は、挿繪には特に興味を有せられ、理解の点も深いであらうが。


挿絵を描く場合には、先ず編輯者から、作家某氏の某作品に挿繪を描いてくれと交渉がある。この時は作家の希望が、或は編輯者の、誰と誰とを組み合わせたら面白いだらうかといふ考慮によるのである。挿繪家はその小説家をよく理解し、作品の気持をよく掴むことが大切である。


そこで、挿繪家のところへ作品が來る、かれはそれによってある場面を脳中に描き、繪として描き出すのである。しかし作品は思ひもかけぬ場面も要求する。例へば、ホテルや、時々しか港へ入らない豪華客船など名をはっきり告げて描かされる時などは閉口である。


まだ、以上のやうなのはよい方で忙しい時には、作品が間に合はず、編輯者が繪ぐみだけをよこして何時までに描かれたしと來る。
ある時、因ごふな四十位の高利貸が云々といふ繪ぐみが來たので、早速、干乾(ひから)びたやうなやせた憎々しい高利貸を描いて送った。


その時、、版になって新聞に出てしまふ。二三日たって、其続きの小説の方が來て見ると小説の方では、肥った高利貸なのである。やせた男が急に二三日で肥る筈もなく全く是には参った次第であった。かうした失敗は私のみではなく、多くの挿繪家が経験する事である。