挿絵が小説に従属したのは、のんびりした昔の話で、現在は、挿絵が小説を支配しているのである。その作家の名を高からしめるも、低からしめるも、画家の方寸にありとすれば、全く愉快である。


 だが然し、待てよ、傀儡師、鬼をだすも、女を出すも画家の自由であるが、へたな絵ばかり書いて、作家に復讐していると、いずくんぞ知らん、それは自らの墓穴を掘っていることになる。
 やはりその小説を、少しでも光らしめようにしないと、自分の存在があやうくなる。画家たるもの、いい気になって新聞小説の挿絵をかいてはおられない。


つらいかな、挿絵画家! 日蓮上人は、「女というものは男に従うとみせて、実は男を従えるものである」と、封建時代に於いて女性尊重の名言を吐いているが、私は挿絵もまた、この聖人の言に於ける女の立場と同様だと思う。つまり挿絵は「小説に従うとみせて、実は小説をしたがえるもの」なのである。
 女のいない男だけの社会など思っただけでも殺伐として堪えられないように、挿絵のない小説など、大衆が棄てて省みないのは当然である。


 私は自分が挿絵画家に生まれてこなかったことを、近来、つくづく後悔している。素晴らしい絵を描いて、読者をアッといわせたいからである。
 この小説はちっとも面白くないが、挿絵は何たる素晴らしさか、この絵を毎日見て楽しむだけでも、自分は生きていることを神に感謝したい、と読者にいわせるような、そんな挿絵がかきたいのである。


 冗談を述べているようだが、実は、これが、新聞小説の挿絵の真のありかたなのである。神に感謝は大袈裟だとしても、せめて、この厄介な、生きているのがつらい、いやな、日本の生活苦なかで、挿絵だけが朝夕、日本人老若男女の心をあかるくすることができたら、画家として、これにすぎる本懐はないであろう。


たまたま私の購読している新聞小説の挿絵には、女の画家がかいたものは見あたらないが、挿絵の仕事はもっとも女性にむいているのである。せっかく女性が解放され、女性の地位が高くなった今日、「女子一生の本懐」として、新聞小説の挿絵に、女流画家がどしどし登場することを、私は念願してやまない。(つづく)