講談倶楽部の発刊は明治四十四年十一月で、続いて大正三年、五年に面白倶楽部と講談社の大発展が宛もこの時期に相当し挿画の舞台が大がかりとなって、ここに割然と挿画家、漫画家という専門家が成長し美術界に一分野が生まれた事になる。


挿画を殆ど専門的にやった井川洗崖や鰭崎英朋の後に近藤紫雲、谷洗馬などは僕などと同時代に属したが、一方鏑木清方のあとに伊東深水山川秀峰、鈴木浚秋(朱雀)などの麗筆時代があって岩田専太郎などの時代に続く訳だが、考えて見ると凸版時代になってからの挿画家は時勢とは云え非常に恵まれている。


木版時代の窮屈さは今日から見ると眼に余るものがあり、どんな小さなものでも原寸で描かねばならず実際不自由そのものであった。尚お僕は風俗画報その他のものに、石版画も描いたが、是が又、その用紙コロンペーパーも用墨も不愉快極まるもので、その用材に馴染むまでは満足に描けるものではなかった。しかしこれ程正直に現れる版は無かったが版としての味に於て欠けていたようである。


尤も当時雑誌の表紙や口絵などは拡大の原画を写真で縮写して石版で製版されたものであり、比較的自由さはあったようだ。婦人画報の表紙は多く太平画会の同人のもので、満谷国四郎や石川寅治など社に来ると直ぐつかまえて八号くらいな油絵を描かせ早速口絵や表紙に使用するなどの陽気さがあったと時の編集長鷹見思水が話していた。


僕も博文館の雑誌二、三の表紙や口絵を描いた事があるが、三色版を除いては原寸大で描き向こう様任せにすると随分歪められたものになる例が尠なからずあったから、どんな人でも決して満足しなかったに違いない。


以上、五十年前に於ける木版から凸版への挿画道一大転換期を中心として雑感を述べたが、尚お、其五のこぼれ話や、漫画の仕事なども言いたかったが与えられた紙数が尽きたので、次の機会に譲る事にする。(引用の方々の敬称を大部分略させて頂き、お許しを乞う)