2010-01-01から1年間の記事一覧
岩田専太郎は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に罹災し、京都に転居。大阪にあった中山太陽堂(現クラブコスメチックス)の経営する広告・出版社プラトン社が1924年(大正13年)雑誌「苦楽」を創刊することになり、編集にかかわっていた朋友・川口松…
その後、著作権継承者を探したり、研究者の桑原規子さんを紹介するなど復刻へ向けて、プッシュし続けると、判型をA4版からB5版に縮小し、上製本を並製本にするなどして廉価での販売出来るようにすること、無くなった版は古書をスキャンニングすることにし…
この時の絵が鶴三を大きく飛躍させるきっかけとなる。鶴三の挿絵に向かう姿勢がこの時すでに完成していたようで、その後も挿絵を描く時は、小説の背景となる土地を訪れて描くことが多い。 石井鶴三:画、上司小剣「花道」(時事新聞、大正9年) 石井鶴三:画…
「田村松魚作『歩んできた道挿絵』 田村松魚作『歩んできた道』は、やまと新聞(〝警察新報〟(創刊明治17年10月)の後身として明治19年10月7日創刊)の朝刊第一面に、大正7年4月12日から同年7月5日まで、85回連載。挿絵29点掲載のうち石井鶴三が23点を担当…
鶴三と松魚の交友関係を調べようと、当時、田村松魚・俊子夫妻が田端に住んでいたのかどうかを、田端文士村記念館の学芸員・永井さんに連絡して調べていただいた。すると永井さんから 「……現在のところ、この二人もしくはいずれかの田端在住を確認しておりま…
口絵 ……例へば「口絵」といふ、明治時代特有といってもいゝ一つの画式あることなど、面白い点である。これも名称は一応雑誌なり単行本なりのトップにある絵だからそれで口絵──といふ意味ではあれ、一頃の文芸倶楽部や新小説あたりの「口絵」の持っていた意義…
「日本挿絵画家協会会員名簿」(昭和14年?)表紙(P-1) 「日本挿絵画家協会会員名簿」(昭和14年?)(P2-3) 名誉会長 鏑木清方 会長 石井鶴三 委員長 林 唯一 副委員長 吉田貫三郎 同 田代光 委員 岩田専太郎 同 富田千秋 同 小川真吉 「日本挿絵画家協…
……婦人公論誌上に連載の上司小剣氏作「森の中の家」という小説に挿絵を描いたのが縁となり、同氏の新聞小説の処女作「花道」の挿絵をたのまれた。時事新聞紙上で大正九年のことであった。 この小説は、一少女が少女期を過ぎて成人せんとする間の動きが書かれ…
新聞連載小説の挿絵を描いたのは、田村松魚氏の「歩んできた道」というのが最初で、大正七年やまと新聞の紙上であった。其作は田村氏の自伝的小説で、作者とは家も近く毎日のように会って話しあって居たので、大変描きよくもあり感興も多かった。 筋はこうい…
昭和十三年から十五年は鶴三、五十二歳から五十四歳である。……「宮本武蔵」の挿絵に移る。これは十年八月からの全編に引き続くもので(前編の挿絵は矢野橋村)、おりからの日中戦争さなかのこととて、忍苦こそが人生の価値とする克己主義の哲学を物語にし、…
挿絵及び挿絵室に就いて 石井鶴三(「春陽会雑報」昭和三年第二号) 春陽会では昨年から挿絵室を設けました。展覧会に挿絵室というのが特に設けられたのは、この会がはじめかと思います。 挿絵というのは、本来は、新聞雑誌とかその他の書物に挿まれる絵とい…
一九二二(大正十一)年に山本鼎、足立源一郎、長谷川昇、小杉未醒、倉田白羊、森田恒友、梅原龍三郎、の七人が発起人になって春陽会は設立された。中川一政、は、石井鶴三、草土社同人の木村荘八、岸田劉生らとともに客員として参加している。二科会に次ぐ…
挿絵は広く逸早く万人の眼に触れるものであるから、新体制影響は直接のものである。一つから言えば、新聞雑誌によらず挿絵とある以上は、それが或る小説なら小説の挿絵であると同時に、また昭和×年×月×日の新聞面に載っているその絵は、言わず語らずその×年×…
左:森川宗弘『鞦韆の詩』(創英社・三省堂出版)、装丁:大貫伸樹 右:大貫伸樹『製本探索』(印刷学会出版部)、装丁:大貫伸樹 すると印刷学会出版部・社長の中村さんから 「ご無沙汰しております。本件,酷似していれば過当競争防止法に引っかかるかとは…
著者の意向を組んだマンガ風の装丁案を作ったが、どうも私にはしっくり来ないので、素直に提出すれば良いものを独自の案も加えてプレゼンテーションした。時間が営業日2日しかないので、かつて制作したオブジェを撮影したものを利用した。オブジェ作りから始…
毎回、まるで移動図書館であるかのように、30冊ほどの書物を旅行用のキャリーバッグに詰め込みリュックを背負って、バス、電車を乗り継いで、JR日野まで通った。 昨日は、挿絵の話だったので、比較的軽かったが、それでも、乗り継ぎ等は結構大変。 昨日の最…
「挿絵倶楽部展 △…結成第一回展として先ず人的内容の貧弱さと生のままの挿絵とは全く趣を異にしているものの多いことが遺憾である △…一般の観賞に供するためには石井鶴三が僅かに色彩を補足している程度にすぎない △…出来栄えとしては石井鶴三、中川一政が試…
石井鶴三:画、「春陽会あかるくなる」(1931年『春陽会雑報』)
新聞の挿絵を見て、人はこの原画が見たいと云います。小生の新聞挿絵は紙上にあらわれたものが原画です。何故というに一種の版画だからであります。肉筆は版下での作画の一過程に過ぎません。勿論重要な一過程ですがどこまでも過程です。それから製版印刷の…
田端文士村記念館 さっそく星さんにメールを送る。 「先ほど電話で話していたのと同じような内容で、石井鶴三や岩田専太郎の講演をお願いしたいっていう講演依頼がとどいた」 「うそ〜、どうして? 鳥肌が立ってきた。こんなことって、本当にあるんだ」 偶然…
「石井鶴三は、洋画家として初めて新聞小説挿絵を描いた春陽会の画家なんだ……昭和2年春陽会展に“挿画室”をつくって、木村荘八、河野通勢、山本鼎、小杉未醒などと一緒に上野のお山の美術館に挿絵を飾ったんだ……そのメンバー達が中心になって昭和14年に“挿絵…
などと話をつづけ、
昭和初期に300点以上も刊行され一大全集ブームとなった円本全集の多くは四六判で刊行された。 一冊一円という条件の中で本を作るとなると、制作コストのかかる菊判は、四六判に比べ、割高になる。従って、発行部数の多い出版物は当然、四六判を選択すること…
当時の様子を『ダイニック70年史』(1990年)から引用させてもらおう。 「円本の企画を耳にすると、三次は機敏に動いた。すぐに改造社にでかけ、社長の山本実彦をたずねている。改造社では全集の装幀用クロスは輸入品ときめていた。日本クロスがブック・バイ…