2010-01-01から1年間の記事一覧

最近古書市でもあまり見かけなくなったプラトン社版「苦楽」だが、朝、出勤途中に京王デパートの古書市によってみたら、プラトン社版「苦楽」第1巻4号(大正13年4月1日)を見つけた。ちょうど岩田専太郎の話を書いていたので、購入した。

岩田専太郎は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に罹災し、京都に転居。大阪にあった中山太陽堂(現クラブコスメチックス)の経営する広告・出版社プラトン社が1924年(大正13年)雑誌「苦楽」を創刊することになり、編集にかかわっていた朋友・川口松…

今から28年前、1982年に三省堂から凾入り豪華本として定価18,000 円で刊行された『恩地孝四郎装本の業』は、今でも古書価が15,000円〜23,500円もする。研究者など仕事で必要な場合なら購入もするだろうが、装丁に多少興味があり恩地孝四郎の装丁本を集めているという私のような貧乏趣味人にはちょっと高い。そこで、知り合いでもある三省堂の出版企画センター長に『恩地孝四郎装本の業』の復刻をしていただけないだろうか、と2年ほど前に話を持ちかけた。最初は、当時の版(製版用のフィルム)がなくなってしまったことや

その後、著作権継承者を探したり、研究者の桑原規子さんを紹介するなど復刻へ向けて、プッシュし続けると、判型をA4版からB5版に縮小し、上製本を並製本にするなどして廉価での販売出来るようにすること、無くなった版は古書をスキャンニングすることにし…

「……このようにして上司氏の信用を得たと見えて、氏の代表作『東京』が朝日新聞に掲載される時、是非挿絵を描いてくれとたのまれた。大正十年の春である。この『東京』は愛欲篇、労働篇、争闘篇、建設篇の四部より成るものであるが、其時は最初の愛欲篇だけが書かれた。……一篇を通じてしっとりと愛の香の漂うよい作品と思った。私の挿絵もいよいよ力が入って、画架たてて画用紙四つ切りくらいの大きさに、本格的な素描を試みた。場面も日比谷こうえんにはじまり、向島・愛宕山・上野・浜町・清水谷・ホテル・郊外の病院と移り、例によって私はそ

「其後、婦人公論誌上に連載の上司小剣氏作「森の中の家」という小説に挿画を描いたのが縁となり、同氏の新聞小説の処女作「花道」の挿絵をたのまれた。時事新聞紙上で大正九年のことであった。……私は興味を以てこの小説に挿絵を描いた。主人公の蝶子という少女に愛情を感じ、其愛情をこめて画を描いて居た。場面が変わるたび、渋谷・芝公園・五反田・千葉という風にそれぞれ其土地を歩いて見た。いちいち写生をするわけではないが、挿絵を描く時には、其背景になっている土地の空気を知って置く要があると思ったからである。」(「文学」1954

この時の絵が鶴三を大きく飛躍させるきっかけとなる。鶴三の挿絵に向かう姿勢がこの時すでに完成していたようで、その後も挿絵を描く時は、小説の背景となる土地を訪れて描くことが多い。 石井鶴三:画、上司小剣「花道」(時事新聞、大正9年) 石井鶴三:画…

石井鶴三の最初の新聞小説挿絵をやっと見ることが出来た。「大正七年 1918年、石井鶴三この年32歳 四月ー7月、田村松魚原作『歩んできた道』(やまと新聞)に柏亭と交代で挿絵を執筆。この時の挿画は毎日ではなく、数日おきに挿入された。」(石井鶴三全集 第1巻)

「田村松魚作『歩んできた道挿絵』 田村松魚作『歩んできた道』は、やまと新聞(〝警察新報〟(創刊明治17年10月)の後身として明治19年10月7日創刊)の朝刊第一面に、大正7年4月12日から同年7月5日まで、85回連載。挿絵29点掲載のうち石井鶴三が23点を担当…

先日、石井鶴三の挿絵家デビューの話「新聞連載小説の挿絵を描いたのは、田村松魚氏の『歩んできた道』というのが最初で、大正七年やまと新聞の紙上であった。其作は田村氏の自伝的小説で、作者とは家も近く毎日のように会って話しあって居たので、大変描きよくもあり感興も多かった。」を「文学」VOL.22(岩波書店、1954年6月号)から引用して紹介した。田村松魚と鶴三の兄・石井柏亭が友達であったことから、大正7年に石井兄弟に挿絵の話が持ち込まれ、「兄柏亭と交代しながら後に名を残す新聞挿絵(田村松魚『歩んできた道』やまと新

鶴三と松魚の交友関係を調べようと、当時、田村松魚・俊子夫妻が田端に住んでいたのかどうかを、田端文士村記念館の学芸員・永井さんに連絡して調べていただいた。すると永井さんから 「……現在のところ、この二人もしくはいずれかの田端在住を確認しておりま…

挿絵といえば、今では多少の違いはあってもそれなりに共通のイメージを持っているものとおもう。が、明治大正期に使われていた「コマ絵」、「板下」、「口絵」という言葉と、「挿絵」との違いとは何なのか。木村荘八「挿絵今昔」(「明治の文学」厚生閣、昭和13年)にその答を見つけたので、下記に引用させてもらおう。

口絵 ……例へば「口絵」といふ、明治時代特有といってもいゝ一つの画式あることなど、面白い点である。これも名称は一応雑誌なり単行本なりのトップにある絵だからそれで口絵──といふ意味ではあれ、一頃の文芸倶楽部や新小説あたりの「口絵」の持っていた意義…

何とか見つけることが出来ないものかと探していた「日本挿絵画家協会会員名簿」を購入することが出来た。名誉会長に鏑木清方を迎え、石井鶴三など春陽会系の上野のお山(展覧会)の画家と新聞小説挿絵や雑誌の小説挿絵などで活躍する挿絵画家たちが手を組んだ歴史的瞬間を立証する資料だ。更に、戦後、昭和23年に岩田専太郎を中心に設立される「日本出版美術家連盟」の前身であることも立証できる可能性を秘めた貴重な資料といえる。私のブログを見ていてくれたのではないかと思えるほどに、いいタイミングで、ネットに掲載してくれました。感謝!

「日本挿絵画家協会会員名簿」(昭和14年?)表紙(P-1) 「日本挿絵画家協会会員名簿」(昭和14年?)(P2-3) 名誉会長 鏑木清方 会長 石井鶴三 委員長 林 唯一 副委員長 吉田貫三郎 同 田代光 委員 岩田専太郎 同 富田千秋 同 小川真吉 「日本挿絵画家協…

挿絵史に於ける新時代の開幕は関東大震災前後の頃であり、それまで専ら浮世絵系の絵かきが描いていたが、決定的に首座を失い、新たに日本画系と並んで洋画系の画家が続々と参入してくるという時期である。この新しい潮流の堰が切られたのは石井鶴三の手によって行われた。東京朝日新聞の連載小説、上司小剣「東京」大正10年(第一部)、12年(第二部)に、鶴三の挿絵が付されて発表され高い評判を得たことが、後に上野のお山(展覧会)で活躍する洋画家達が競って新聞小説を描くようになる先駆役を果たしたのであり、戦後、昭和30年代に訪れる

……婦人公論誌上に連載の上司小剣氏作「森の中の家」という小説に挿絵を描いたのが縁となり、同氏の新聞小説の処女作「花道」の挿絵をたのまれた。時事新聞紙上で大正九年のことであった。 この小説は、一少女が少女期を過ぎて成人せんとする間の動きが書かれ…

緊張しているといつもこうなんだが、今朝も5時に目が覚めてしまった。せっかくだからと、本棚を眺めていると「文学」VOL.22(岩波書店、1954年6月号)に、石井鶴三「挿絵画家としての思い出」を見つけてしまった。田村松魚氏の「歩んできた道」での挿絵家デビューから上司小剣「森の中の家」(「婦人公論」)、「花道」(時事新報、大正9年)、「東京」、「大菩薩峠」、そして中里介山が著作権侵害者として鶴三を告訴し、取り下げるまでが詳しく書かれていた。鶴三は大正5年に田端に移り住んでいるので、当然、松魚・俊子夫妻とのやり

新聞連載小説の挿絵を描いたのは、田村松魚氏の「歩んできた道」というのが最初で、大正七年やまと新聞の紙上であった。其作は田村氏の自伝的小説で、作者とは家も近く毎日のように会って話しあって居たので、大変描きよくもあり感興も多かった。 筋はこうい…

やっと見つけた。第十六回春陽展の出品作の話が、匠秀夫「宮本武蔵」昭和十三年から十五年の仕事(『日本の近代美術と文学』沖積社、昭和62年)に下記のように掲載されていた。

昭和十三年から十五年は鶴三、五十二歳から五十四歳である。……「宮本武蔵」の挿絵に移る。これは十年八月からの全編に引き続くもので(前編の挿絵は矢野橋村)、おりからの日中戦争さなかのこととて、忍苦こそが人生の価値とする克己主義の哲学を物語にし、…

春陽会「挿絵室」を立ち上げる事になった中心人物でもある石井鶴三が、「挿絵室」について書いている文章が出て来たので、転用させてもらおう。「挿絵室」を油絵などを飾っている上野のお山の展覧会に飾ろうとした真意が分かるものと思う。

挿絵及び挿絵室に就いて 石井鶴三(「春陽会雑報」昭和三年第二号) 春陽会では昨年から挿絵室を設けました。展覧会に挿絵室というのが特に設けられたのは、この会がはじめかと思います。 挿絵というのは、本来は、新聞雑誌とかその他の書物に挿まれる絵とい…

「中川一政挿画展─石井鶴三・木村荘八とともに─」に春陽会「挿画室」の話が出ていたので、引用させてもらう。

一九二二(大正十一)年に山本鼎、足立源一郎、長谷川昇、小杉未醒、倉田白羊、森田恒友、梅原龍三郎、の七人が発起人になって春陽会は設立された。中川一政、は、石井鶴三、草土社同人の木村荘八、岸田劉生らとともに客員として参加している。二科会に次ぐ…

春陽会の芸術家達がなぜ、春陽展の会場に挿絵を展示したのか? さらには挿絵画家の団体「挿絵倶楽部」を起ち上げようとしたのか、木村荘八「時代のいろ」(『近代挿絵考』双雅房、昭和18年)にその答えが書かれていた。長文になるが以下に引用してみよう。(旧漢字は新漢字に変換した。)

挿絵は広く逸早く万人の眼に触れるものであるから、新体制影響は直接のものである。一つから言えば、新聞雑誌によらず挿絵とある以上は、それが或る小説なら小説の挿絵であると同時に、また昭和×年×月×日の新聞面に載っているその絵は、言わず語らずその×年×…

拙書『製本探索』(印刷学会出版部)によく似た装丁で本を作って欲しいという条件付きで飛び込んできた文庫本判上製本、『鞦韆の詩』(創英社・三省堂出版)の装丁案が出来上がった。が、その著者が「表紙の布のような紙が気にいっている」という『製本探索』の表紙に使われている紙は、何を選択したのかを思い出せず、版元の印刷学会出版部に問い合わせることにした。ついでに、「よく似た本を……」と頼まれて、よく似た装丁の本を作っていることへの詫びも入れることにした。

左:森川宗弘『鞦韆の詩』(創英社・三省堂出版)、装丁:大貫伸樹 右:大貫伸樹『製本探索』(印刷学会出版部)、装丁:大貫伸樹 すると印刷学会出版部・社長の中村さんから 「ご無沙汰しております。本件,酷似していれば過当競争防止法に引っかかるかとは…

ある執筆者から直接、装丁の依頼があった。メールでマンガ風のイラストを2点送ってきて、「装丁について、愚生の希望は、添付の葉書のイメージのような、デザインを希望していますので、一つの参考にしていただけたら幸いです。」と記されていた。

著者の意向を組んだマンガ風の装丁案を作ったが、どうも私にはしっくり来ないので、素直に提出すれば良いものを独自の案も加えてプレゼンテーションした。時間が営業日2日しかないので、かつて制作したオブジェを撮影したものを利用した。オブジェ作りから始…

昨日で実践学園生涯学習センターでの「美しい本の話」講座3回が終わった。

毎回、まるで移動図書館であるかのように、30冊ほどの書物を旅行用のキャリーバッグに詰め込みリュックを背負って、バス、電車を乗り継いで、JR日野まで通った。 昨日は、挿絵の話だったので、比較的軽かったが、それでも、乗り継ぎ等は結構大変。 昨日の最…

石井鶴三たちが昭和14年に起ち上げた「挿絵倶楽部」に関する記事が、「本の手帳」同人の喜夛さんから送られてきた。小さな記事で、次のように記されている。

「挿絵倶楽部展 △…結成第一回展として先ず人的内容の貧弱さと生のままの挿絵とは全く趣を異にしているものの多いことが遺憾である △…一般の観賞に供するためには石井鶴三が僅かに色彩を補足している程度にすぎない △…出来栄えとしては石井鶴三、中川一政が試…

挿絵というものは本来非常にむずかしいものです。心内の幻想を描出するものですから、眼前のものを描くよりは一層むずかしいわけです。素描の力が充分にあって余程空想ゆたかな人でなければよい挿絵は描けません。而して文学を理解し人事百般の学問を通じていなければならない。こう考えて来ると挿絵という仕事は非常に恐ろしくなります。なまやさしいものではない。挿絵をやっていると自分の至らぬことが痛感され、勉強せずにはいられなくなるのです。」(『春陽会雑報』昭和6年4月第1号)

石井鶴三:画、「春陽会あかるくなる」(1931年『春陽会雑報』)

展覧会を見る人はおのずから限られているが、新聞は見る人の範囲がずっと広く、その人々の多数は僅に挿絵によって絵画を味わう機会を与えられていると云ってよいのですから、新聞の挿絵は考えようで責任の重い仕事だといえます。挿絵を馬鹿にするのは多くの民衆を馬鹿にすると同じです。だが、今日では新聞の挿絵が正当に理解されて来て大慶です。

新聞の挿絵を見て、人はこの原画が見たいと云います。小生の新聞挿絵は紙上にあらわれたものが原画です。何故というに一種の版画だからであります。肉筆は版下での作画の一過程に過ぎません。勿論重要な一過程ですがどこまでも過程です。それから製版印刷の…

「春陽会には挿絵を描く人が幾人もあるので、自然会場に挿絵室も設けられるわけです。展覧会というものは画家の画生活の如き意味もあるので、小生の如きこの一年殆ど挿絵に埋没してしまった者は、その仕事の中から出品するのが最自然です。強いて油絵の具をいじったりする要はありますまい。数年前までは一般に挿絵を卑しむ風がありました。油絵などで展覧会製作でもやらねば真面目な絵とされなかったのです。今はそんな馬鹿なことを云う人はなくなりました。

春陽会展覧会に挿絵が飾られたという話をもう少し詳しく知りたいと思い、「石井鶴三全集」を眺めていたら、春陽会に挿絵を出品することに関する鶴三のエッセーを見つけた。

2011年3月6日(日)2:00に田端駅前にある田端文士村記念館に足を運んでみてください。真実が分かります。

「石井鶴三や岩田専太郎など田端にゆかりのある画家の話をして欲しい」という田端文士村記念館からの講演依頼だった。

田端文士村記念館 さっそく星さんにメールを送る。 「先ほど電話で話していたのと同じような内容で、石井鶴三や岩田専太郎の講演をお願いしたいっていう講演依頼がとどいた」 「うそ〜、どうして? 鳥肌が立ってきた。こんなことって、本当にあるんだ」 偶然…

「粋美挿画」第4号の企画では「石井鶴三と春陽会の挿絵画家たち」の話を書かせてもらいたいんだけど……」

「石井鶴三は、洋画家として初めて新聞小説挿絵を描いた春陽会の画家なんだ……昭和2年春陽会展に“挿画室”をつくって、木村荘八、河野通勢、山本鼎、小杉未醒などと一緒に上野のお山の美術館に挿絵を飾ったんだ……そのメンバー達が中心になって昭和14年に“挿絵…

石井鶴三は東京下谷生まれ大正5年に田端に移り住む。岩田専太郎は東京浅草生まれ、大正15年に田端に移り住む。ともに田端にゆかりの絵描きだ。ついでといってはなんだが、専太郎の朋友・川口松太郎も東京浅草で生まれ、昭和2年に田端の専太郎の家の隣に移住している。

朝、事務所に着くと直ぐに日本出版美術家連盟理事・星さんから電話があり「紀伊国屋書店さんが“粋美挿画”を100冊おいてくれるそうです。」「ホント!?すごい、やったね〜!!さすが、スーパーウーマンだね」

などと話をつづけ、

この他菊半裁、三五判、などと称するものが、紙の折り方如何によってできる。三五判とは、菊全紙を四十折して、一枚から八十頁を取ったもの。本の性質、原稿の長短、値段如何により、あるいは時代の好みにより、どの判型にするかを選択する。」(小川菊松『出版興亡五十年』(誠文堂新光社、昭28年)

昭和初期に300点以上も刊行され一大全集ブームとなった円本全集の多くは四六判で刊行された。 一冊一円という条件の中で本を作るとなると、制作コストのかかる菊判は、四六判に比べ、割高になる。従って、発行部数の多い出版物は当然、四六判を選択すること…

「教科書などの大きさは菊判といって、二尺一寸、三尺一寸の一枚の全紙から三十二頁とれる判型であって、婦人雑誌や「キング」「日之出」のサイズ。一般の単行本には四六判という判型をつかう。四六判の一枚の全紙は二尺六寸、三尺六寸で、これを三十二折して、六十四頁になる。新聞の一頁はこの四六判全紙を四つに折ったものである。この本の倍の大きさを四六倍判と呼ぶ。

明治大正時代のブック・クロスは、殆どウィンターボトム社(イギリス)、ヤコビ社(ドイツ)、パンクロフト社(アメリカ)等からの輸入品で賄われていたが、第一次大戦の影響で輸入が閉ざされ、大正八年にブック・クロスメーカーとして東洋クロス、日本クロス工業の二社が創立する。

当時の様子を『ダイニック70年史』(1990年)から引用させてもらおう。 「円本の企画を耳にすると、三次は機敏に動いた。すぐに改造社にでかけ、社長の山本実彦をたずねている。改造社では全集の装幀用クロスは輸入品ときめていた。日本クロスがブック・バイ…