以上僕の是まで歩いた道を略記したが、さて五十年前を顧みて思うにその頃の僕達の絵の刺激の対照となったのは水野年方、富岡永洗、梶田半古、武内桂舟、というような先生達で凡そ挿画に志す人だったら是等の先生の直接間接に感化を受けぬ人はなかったと思う。殊に半古の読売新聞における挿画は簡潔で瀟洒で当代風俗表現の妙手だった。


それから漫画家として渡辺審也の時事新報に於ける挿画は一大特色を帯び、木版に編目彫りの創意を見せて注目をひいた。洋画家で新聞小説の挿画を描いたのは恐らくこの人が最初ではないかとおもう。


その新聞小説の挿画は凡そそれぞれの新聞の専属的になって居たようで、永洗の都新聞(今の東京新聞)半古の読売、年方のやまと桂舟の博文館の諸雑誌、右田年英の東京朝日、稲野年恒の大阪朝日、多田北領の大阪毎日と云うふうで僕達に馴染んだ。大阪朝日には後に野田九甫の専属の期間があって異色を示した。



右田年英:画、渡辺霞亭「渦巻」第一回(大阪朝日新聞大正2年7月26日)


右田年英:画、渡辺霞亭「渦巻」第一回(大阪朝日新聞大正2年7月26日)



僕が朝鮮を引き上げて東日へ入社した頃に永洗や年方は既に故人で後に続く人として鏑木清方、鰭崎英朋、井川洗崖(山はない)、坂田耕雪というような先生方が登場し活躍され、大阪では北野恒富が大阪新聞で活躍していた。中にも清方、恒富の画にはひどく魅了された。


当時東日に於ける僕の担当はスケッチ方面で写真版や凸版の無い時代だから議会や相撲は勿論、何か事件が起きると直ちに駆けつけて今言う写真班替わりをした訳で、しかもそれを直ちに木版に起こすのだから原寸大に描かねばならず、事件があると相当忙しい日もあった。


しかし小説の絵もえがいた。高浜虚子氏の『朝鮮」伊藤三千夫氏の(題忘失)にコマ絵風の絵を執筆した。(コマ絵という言葉の起こりはよく知らないが、新聞や雑誌に読物と関連のない小さい絵を装飾的に挿入し、これをコマ絵と称して居た)


それから是は普通の挿絵として塚原渋柿園の時代小説佐倉宗五郎の挿画を描いたが、この人は、自ら下図を作り到れり尽くせ利りの注意書きがしてあって、画家にとっては迷惑でもあり有り難くもありであったが、僕はそんな事には余り拘泥せずに型破りの漫画風で表現したら案外反響があったようで渋柿園氏からも褒められた。ところが最後の宗五郎が礫に通う図に筆が走って礫が突出した絵となり、自分では気がつかなかったのだが翌日新聞を突きつけられ『殺される寸前の人間にこんなことが有り得るか』とお目玉を喰らった。


渡辺黙禅も下図をつけたように思うが、この作家は草双紙などの面白い絵を見つけては小説の筋を進めて行ったという巷説があるが是れは巷説に過ぎぬかもしれぬ。江見水蔭も下図をつけた人であり、坪内逍遥先生もなかなか手際の好い下図をつけられた。概して明治末期頃の通俗作家は多分に江戸時代の戯作者気質が残って居り、絵もなかなか達者な人が多かったようである。(つづく)