2011-12-01から1ヶ月間の記事一覧

当時の朝日新聞の連載小説は、「虞美人草」の様にさし絵のない現代小説と、絵入り小説と呼ばれる時代小説の二本が掲載されていた。

春仙は、漱石「虞美人草」、二葉亭四迷「平凡」、漱石「坑夫」の装画(題字飾り)を手がけた後に、島崎藤村「春」135回(東京朝日新聞、明治41年4月)で初めて挿絵を担当する。洋画風の構図やスケッチに交えて時には和風のタッチをもとり入れ大変な評判を呼…

「虞美人草(ぐびじんそう)」は夏目漱石が明治40年東京帝国大学を辞職、朝日新聞に入社し職業作家として書いた第一作。名取春仙も漱石と同年に東京朝日新聞社に入社し、夏目漱石(そうせき)の「虞美人草」の題字飾りカットをえがく。6月23日より10月29日まで連載された「虞美人草」にさし絵はなく、橋口五葉、春仙が東京朝日新聞で、野田九甫、赤松麟作が大阪朝日新聞でそれぞれ20種ほどを描いて、小説の展開にしたがって数回ごとに変えて使われた。東京朝日新聞16番目の鷹の像のカットには”NATO-RI”のサインが記されている

東京朝日新聞に掲載された夏目漱石「虞美人草」題字飾りカット(明治40年6月〜10月) 東京朝日新聞に掲載された夏目漱石「虞美人草」題字飾りカット(東京・大阪朝日新聞、明治40年) 東京朝日新聞に掲載された夏目漱石「虞美人草」題字飾りカット(東京・大…

名取春仙:装丁・挿画、渋川玄耳『薮野椋十世界見物』など春仙が装丁、装画を手がけた書籍が次々に届く。『薮野椋十世界見物』のさし絵は、名取春仙のほか、中村不折、小杉未醒、鹿子木孟郎、北沢楽天と、豪華なメンバーが「彩色挿画」を描いている。

名取春仙:装丁・挿画、渋川玄耳『薮野椋十世界見物』(有楽社、明治45年8版) 名取春仙:画「ナイアガラ瀑」(渋川玄耳『薮野椋十世界見物』有楽社、明治45年8版) 名取春仙:画「夫婦は二世」(渋川玄耳『薮野椋十世界見物』有楽社、明治45年8版) 名取春…

電子書籍業界ってどんなものなのか、と思って山田順『出版大崩壊』(文藝春秋、2011年)、猪熊建夫『新聞・TVが消える日』(集英社、2009年)等を読んでみたが、何れも否定的で、紙の本がダメで電子出版がだめといわれるとお先真っ暗になる。

ましていわんや、電子書籍で売れているのは、電子コミックで、中でも成人用コミックといわれるいわゆるビニ本とかエロ本といわれるたぐいのものだという。活字中心の書籍をPDF等で電子書籍にしてもほとんど売れないという。 「電子書籍元年」といわれた2011…

拙書『製本探索』を電子書籍にしたい、という話が飛び込んできた。

著者自装:大貫伸樹『製本探索』(印刷学会出版部、2005年)

6月に開催されたJPAL展の授賞式が先日行われ、私は昭和ロマン館賞を受賞したが、体調が優れないので欠席した。そのトロフィーが今日、送られてきた。

おしゃれなデザインのトロフィーに、ちょっと元気を頂きました。

学生の時に読んだ武田泰淳『富士』(中央公論、1971年)、谷川雁『戦闘への招待』(現代思潮社、 1961年)の装丁が司修氏の手になるものだったのがきっかけで、司氏への興味を持ち、以後、司修『紅水仙』(講談社、昭和62年)、司修『描けなかった風景』などの自著自装にもおおいに感化され、いつかは自著自装の本を作ってみたいというのが、私の夢になった。

司修:装丁、武田泰淳『富士』(中央公論、1971年) 著者自装、司修『紅水仙』(講談社、1987年) 著者自装、司修『本の魔法』(白水社、2011年) 画家であり、装丁家であり、作家でもある司は装丁家になりたいと思っていた私の目標になった。銅版画や水彩画…

カバーのルーツを辿ると下記の和本のように、筒状の紙に包んでいたのが原点だったのではないか、と私は考えている。和本の場合は表紙が柔らかく、筒状に丸めれば筒状の紙に(底のない袋の様なもの)挿入するのが簡単だったが、洋本になってからは『国文学史教科書』表紙がボール紙を芯紙とした堅表紙になり、筒状の封筒では扱いが困難なため、糊で接着していた部分を糊づけせずに、書物の表紙の裏に折り込んだのではないかと思っている。

(筒状の封筒の名称について、某大学のA准教授から「書袋(しょたい)」という、との電話でのご指示を頂きました)。 そうだと仮定すると、国産ボール紙が量産されるようになった明治20年代頃からカバーが付いていた可能性も考えられる。 一陽斎豊国・画、柳…

現在使われているようなカバーはいつごろ誕生したのだろうか? 紀田順一郎さんによると、(函は)日本独特のもので、「現在のような形としては、夏目漱石の『三四郎』(1909[明治42]年)が最初の部類で、本のカバーやオビなどとともに、明治四十年代に日本のブック・デザインの基本がきまった」(「図書設計」39号)という。そこで、私も早速、本箱を漁ってみたら、それらしき本が2点出て来た。今回アップした書物はジャケットが付いていたおかげで、どの表紙も発売から100年以上も経過したとは思われないほど綺麗に保たれている。

落合直文・内海弘蔵『国文学史教科書』(明治書院、明治36年)上は、教科書のジャケット、いろいろな内容を詰め込んでおり、オビの役目なども果たしている。下は教科書なのに豪華な装丁用クロス装上製本の表紙 磯村大次郎『実用刺繍術』(博文館、明治40年3…

これが明治のベストセラー、三大名著

・福沢諭吉『学問のすすめ』(明治5年) ・中邨正直『西国立志編(原名自助論)』(駿河静岡 木平謙一郎蔵版、明治5年) ・内田正雄『官版輿地誌略』(明治7年) 『学問のすすめ』は、1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)17編出…

当ブログのページビューが1,000,000(百万)を突破した。こんな風に数字が綺麗に揃うと、ただそれだけでなぜか嬉しくなります。

1872年に学制が公布され、『西国立志編』は教科書としても使用された。「人は志しを立てて努力するならばきっと成功する」ということが繰り返し説かれており、自助論の序文にそえられた「天は自ら助くる者を助く」、創造主である神は自分の奮闘努力によって助かろうとする者を助ける、という一文は有名である。

こんな本を買って喜んでいる気持を分かる人は、殆どいないんだろうな、なんて思いながらも、誰かに聞いてもらいたくて仕方がない。この1冊のわくわく感動は1週刊は醒めない。 中邨正直『西国立志編(原名自助論)』(駿河静岡 木平謙一郎蔵版、明治4年?) …

1859年に発行されたサミュエル・スマイルズ著『自助論』、300人以上の欧米人の成功談を集めた成功伝集を翻訳。明治時代の終わりごろまでに100万部以上を売り上げ、福沢諭吉の『西洋事情』、内田正雄の『輿地誌略』と並び明治初期の三大名著と称された啓蒙書であり、ミリオンセラーの草分けでもある。

中邨正直『西国立志編(原名自助論)』(駿河静岡 木平謙一郎蔵版、明治4年)11冊のうちの1冊と思われる冊子を入手。当時幕府の留学生だった中村正直が、イギリス留学中の友人フリーランドから、餞別として贈られたスマイルズの『自助論』(Samuel Smiles“Self-Help ”)を熟読、「自助」の精神に深く打たれ翻訳を思い立つ。

さらに、佐久間が一人で悩んでいるところに、さまざまな策を授けてくれた人物がいた。『尚茲に特記すべきは、氏の発明研究に對し、隠然其指導者となりて能く氏を導きたる。今の東京板紙會社取締役兼技師長小野寺正敬氏の存在是れなり。氏は幕府の士にして明治初めの米國に留学し、多年製紙業を研究し歸朝後王子抄紙會社の設立に與りて仝社に存りたるを以て、佐久間氏は屡々氏に請ふて教を享けたるのみならず岩戸工場實査を託して改良を加はたること少なからず。苛性曹達を用ゆるの利便なることを及粉碎機プレッス、光澤ロール等の据え付けを得たるは

小野寺正敬とは「江川太郎左衛門の門にあって砲術及び練兵の法を学び、歩兵指図役となり、明治維新の際鳥羽伏見や会津若松で官軍と戦った。後清水篤守の近侍に任ぜられ、明治三年五月篤守の欧米遊学に従って米国に渡り、ボストンに止まってウエストニュトン…

豊原又男『佐久間貞一小傳』(故佐久間貞一君胸像建設事務所、明治37年初版発行、昭和7年再版)によると、板紙(ボール紙)の製作過程がもう少し詳しく書かれている。

「愈々其事に當らんと欲するも、未だ抄造に用ゆべき原料の何物なりやさへ辨ぜざることなれば、原料の本質を知らんと欲し、舶来板紙の斷片を集め之を水に浸して融解せしめ、或いは之を煮沸して分析解剖し、一意原料の發見に心を注ぎたり。偶融液中我邦の麥桿…

明治初期の日本のボール紙(板紙)生産状況については、青木栄之助『東京板紙と佐久間貞一』(千住製紙、昭和三十四年)に、「(佐久間貞一は)明治九年十月京橋区西紺屋町に高橋活版所と云うのが売物に出ていたのを譲り受けて、秀英舎と云う小さい看板を掲げて開業した。その時の資金は僅かに千円、それも友人・保田久成から借入れたものであった。しかし当時は未だ何と云っても政府の印刷局を除いては活版印刷は一般にはあまり知られて居らず、仕事は閑散で経営には頗る苦労した。偶々中村正直がその著書『西国立志編』を従来の木版印刷を止めて活

……その時、中村正直から製本を洋式装釘(*そうてい)とするように依頼されたが、その頃我が国には洋式装釘の方法を知るものもなく、第一その表紙に使用する板紙は、舶来品が僅かに市場に存するばかりで、その抄造の方法に至っては皆目見当もつかない有様であ…

そもそも輸入ボール紙はいつごろ、どこで製造が始まったのか?『段ボール物語』(前記)によると「西暦1750年(*261年前)ドイツにおいて藁を原料とする黄色包装紙製造を発明し、ついで西暦1809年(*202年前)にはジョン・デッキンソンが丸網式ヤンキー抄造機を完成し、板紙抄造に画期的進歩をもたらしたのである。西暦1817年(*194年前)には英国の板紙工場技師ヒューズが、初めて特別光沢を付する装置を発明し、光沢付板紙を市場に販売した」と記されており、明治維新より約120年も前に発明され、59年も前に量産が始

●国産初の板紙(ボール紙)

厚表紙とか堅表紙と呼ばれるボール紙を使う西洋式の製本には、本製本(糸縢り綴付け本)や上製本、そして、南京綴などの「くるみ製本」呼ばれる簡易上製本等がある。明治初期に輸入されたこれらの西洋式製本には、板紙は必要不可欠な資材であったが、まだ国…

板木に彫り和紙に摺り糸で綴じた和式製本(和綴)から、洋紙に活字で印刷し、折丁を糸で縢る洋式製本ヘの技術革新は、単なるバージョンアップではない。幕末の草子や合巻もののように年に二〜三回発行で、文字数の少ない視覚的な情報装置から、一冊に大量の文字情報を貯蔵し、短期間で制作・伝達する装置への大転換であり、文字を中心とした新たな大量情報伝達装置の誕生なのであり、今日のブロードバンドにも匹敵する大変革なのである。

サミュエル・スマイルズ『自助論』を訳した中村敬太郎(正直)訳、木平謙一郎板『西国立志編』の初版は十三篇十一冊、半紙判、和紙和綴、木版印刷、黄表紙で明治四年に七月に刊行した。(*木平謙一郎板『西国立志編』十三篇十一冊のうちの1冊をネットで購入…

●大量情報伝達装置と読者の誕生

ノンブルの出現は読者の検索の利便性を高めただけではなく、面付けという複雑な展開図を使う印刷工程の現場が、最もノンブル出現の恩恵を受けたにちがいない。1ページごとに組まれた組版は、片面に8ページずつ面付けされ、製版・印刷段階ではさかさまの頁が隣に組まれたり、順不同に並べられたり、と混乱しがちなので、この段階で誤りを発見するセンサーのような役割もあった。

「面付け」の説明図

合巻本などでは、十丁(二十頁)ほどで構成される編(さく)に分冊され発刊されるのが一般的であり、多いものでは『白縫譚』のように七十一編におよぶものもあった。しかし、それぞれの編は内容量が少ないため全体を一覧するメニーのような役目をする「目録」や「目次」を必要としなかった。

一陽斎豊国・画、柳亭種員・作『白縫譚』(藤岡屋、嘉永庚戌) しかし、和本で出版された初版は十一冊十三編であったが、この大量の情報を洋本にすることで一冊に搭載してしまった『改正西国立志編』のように、総ページ数が八四二頁にも及ぶとなると、制作工…

●面付け、ノンブル、目次の登場

「洋本化」とは?楮や三椏などを原料にした手漉きの和紙に代り、パルプなどを原料にした機械漉きの洋紙を使い、印刷は木活字が鋳造活字に、木版が活版に、手摺りから機械刷りに代わり、二頁〔一丁)「片面刷り」から、あたかも十六階建て建造物の展開図のよ…