2009-07-01から1ヶ月間の記事一覧

明治後期の水彩画全盛時代の幕を開けた3人の英国人水彩画家たちの作品をやっと見つけることが出来た。青木茂『自然をうつす 東の山水画・西の風景画・水彩画』岩波近代日本の美術8(岩波書店、1996年)に、明治末期に来日し、本格的な水彩画を伝えたイースト、ヴァーレー、パーソンズの作品が掲載されていた。いずれも郡山美術館蔵の作品で、「最近になってわれわれはこの3人の作品を見ることが出来るようになった。」と記されており、一度は訪ねてみたいと思っている。

サー・アルフレッド・イースト「荒れ模様」制作年代不詳、水彩画、郡山美術館蔵 ジョン・ヴァーレー・ジュニア「雪の京都、祇園へゆく道」制作年不詳、水彩画、郡山美術館蔵 明治美術会第4回展(1892〈明治25〉年)「ジョン・ヴァーレー(John Verley Jnr.18…

当時の水彩画ブームの勢いについては、このころ発行された水彩画に関する刊行物の数の多さからも裏付けることができる。

・大下藤次郎『水彩画の栞』(新聲社、明治36年) ・小林鐘吉『水彩画一班』(明治36年) ・大槻虎軸『スケッチの栞』(明治36年) ・大下藤次郎『水彩画階梯』(明治37年) ・織田一麿『水彩画法』(片山富文館、 明治37年) ・大下藤次郎「みづゑ」創刊号…

「一般の青年男女の間に洋画の趣味が広く普及したのは、恐らく明治三十六年頃からであろう。その結果として最も素人の近づきやすい水彩とスケッチとが多くの青年男女によって試みられるようになり、作家もまた啓蒙活動に力を尽くし、中村勝治郎、大下藤次郎、三宅克己などによって、それぞれ水彩画法の冊子が刊行されて、世にむかえるところとなった。明治三十八年七月には、大下の主宰する水彩画研究団体春鳥会で、機関誌《みずゑ》を創刊し、年毎に読者の数を増していった。明治四十年七月には、丸山晩霞の《女性と趣味》がでた。これは水彩画手引

「日本における水彩画が非常な勢力を持って台頭していったのは明治三十年代の初頭で、明治三十三年に第五回白馬会展が開催された時に、ちょうど帰朝したばかりの三宅克己が滞欧作品を出陳して、会員に参加したことも、大きいセンセーションとなったのです。彼の海外研究の成果をみることによって、もはや言葉で述べなくても水彩画が油絵と同等のもので、独自の芸術であるということを立派に証明してくれたからです。彼はその堅い意思をもって、雄々しくも日本の水彩画の発展のために戦いつづけていったのです。東京の各新聞は水彩画家三宅克己の芸術

このことは、三宅克己自身も 「二ヶ月における欧米にての私の制作画は、自分で今いうのはおかしいが、それはそれは貧弱な日本の水彩画界を賑わした。黒田先生はぜひとも白馬会に出陳を頼むといわれて、私の水彩画は白馬会のおもなる呼び物として陳列されたの…

三宅克己の洋行の成功がきっかけになり、日本の水彩画家たちはあいついで水彩画の研究のため欧米に渡った。

(*明治三十年六月)三宅克己は先ず、わずかな旅費と自分の水彩画をもってアメリカに渡り、その水彩画によってヨーロッパに渡る資金を得て、ヨーロッパの国々を訪れたのです。三宅画伯の方法が成功しますと吉田博、満谷国四郎、石川寅治、丸山晩霞、河合新蔵…

明治二十二年に、イギリスの本格的な水彩画家が突然日本にやってきた。「そのすばらしい作品は、従来、水彩画というものが油絵を描くための準備だと思っていた人たちに対して、水彩画も油絵と同様、その存在価値を争うべき純粋な芸術作品であることを知らしめたのです。水彩画に対する自覚をあらたにしたことは、日本で純粋な水彩画家という芸術家を当然生み出す契機となり、また画家たちのあいだにもそれを指向するものが多く現れだしたのです。このことが日本における水彩画の隆盛をうながす一つの大きな動機になったことは、否定できない事実なの

「明治二十二年の五月、〈明治美術会〉という美術団体が結成されたちょうどその頃に、イギリス人の著名な水彩画家のアルフレッド・イースト卿SirAlfred East(1849〜1913)が日本に来朝して、京都や奈良を初めとして、日本の各地の風景を写生しました。当時…

それだけではない、あまりにも偶然過ぎるくらい、別の古書店の店頭の棚に外山夘三郎『日本洋画史2明治後期』(日貿出版社、昭和53年)を見つけた。もしかして、と思い、手に取ってぱらぱらとめくってみると、なんと、期待通りにこの本には、水彩画と日清戦争の話が詳しく書かれていた。私が一番知りたかった水彩画家たちの装丁や挿絵での活躍ぶりについてもしっかりと記されている。

三宅克巳のマスメディアでの活躍ぶりについては、明治34年 「12月に再びロンドンへ行く決心をして、神戸を出発したのです。これが彼の第二回目の洋行でした。ところがロンドンに着いてみますと、寒さと霧で描けないので、パリにもどって次の春になるまでパリ…

肝心の水彩画用アンティクなモチーフは見つからなかったが、古本屋さんの店頭で、水彩画家・三宅克巳の絵葉書を見つけてしまった。それも2枚。

三宅克巳、昭和4年帝国美術院第10回美術展出品「カリホルニヤ州サンデーゴ郊外の冬」(神田美土代町美術工芸界発行) 三宅克巳、昭和5年帝国美術院第11回美術展出品「秋」(神田美土代町美術工芸界発行)

三宅克己の絵葉書を見つける

水彩画のモチーフにと、レトロな小物を探しに西荻窪へ行く。西荻窪はアンティーク・ショップや骨董品の店などが60店舗もあるらしい。 3時間も歩き回ったが目ぼしいモノには出会えず、あきらめかけていた時に、あの懐かしい大きな缶入りの明治粉ミルクを見つ…

早稲田大学で戦争絵画の展覧会があったので見てきた。帰り道、ぶらぶらと早稲田の古本屋街を歩いていたら、高階秀爾書き下ろし評伝ほか『水絵の福音使者 大下藤次郎』(美術出版社、2005年、定価7800円+税)に出会い、思わず衝動買いをしてしまった。2冊セットになっており、箱入りの大部の本で思わぬ出費をしてしまった。

高階秀爾書き下ろし評伝ほか『水絵の福音使者 大下藤次郎』(美術出版社、2005年) 大下藤次郎については、これから三宅克己を登場させて、その後に登場させようと思っておりました。

図書館の入り口では「ゲスナー賞文庫開設記念展」も開催されており、第4回ゲスナー賞「本の本」部門銀賞を受賞した『装丁探索』(平凡社、2005年)も一番いいところに鎮座していた。図書館の書庫にも、ちゃんとコーナーが作られており、明治大学図書館の受け入れ体制の気のいれようがうかがわれた。

ゲスナー賞受賞作品及び応募作品約600点を雄松堂書店より明治大学図書館に寄贈する式典・講演会が行われ出席してきた。紀田順一郎さんの挨拶や樺山紘一さん、高宮利行さんの講演があった。

しかし、市販されたおおば比呂司:装画、丘永漢『サムライ日本』(中央公論社、昭和34年)の装丁には、頂いた装画は使われていなかった。

おおば比呂司:装画、丘永漢『サムライ日本』(中央公論社、昭和53年) おおばが、依頼された装丁に対して何案か提案したうちの一つで、実際には使われなかったものなのだろうか。もしそうだとしたら、せっかく作ったものを使わないなんて、なんとももったい…

おおば比呂司:画「サムライ日本」の装丁原画か?

蔵書票のコレクターとして知られる青木康彦さんの家にご招待を頂き、日本書票協会に所属する銅版画家の長島充さんなど6名の集まりに参加してきた。蔵書票のコレクションとは、自分のお気に入りの版画家に自分の名前が入った蔵書票の制作を依頼する事でもあり…