日本画でもそうだ。いたずらに大きさを競い、日本画だか洋画だか、奇妙奇天烈に絵具を塗りまくった自称大作よりも近東や西蔵のミニアチュール、ビアズレーの線画に魂の憩いを感ずる.


それがいい挿絵であれば、わざわざ埃にまみれて美術館まで出かけなくても、手軽に自宅で楽しめるし、いつでも手もとにのこるし、鑑賞者にとって、こんな嬉しいことはない。


あえて、私は、いい挿絵といった。あまりにも、現在、わるい挿絵が多すぎるからである。なぜ多いのか、それは挿絵画家が、まるで小児病患者のように本絵に憧れ、挿絵を一段低いものに見て、低俗を以て甘んじているからだ。


何々会員となって箔をつけるのは結構。然し何々会員だから、その挿絵がいいという逆テーゼは成り立たない。私が挿絵画家だったら、何々会員になる努力をかさねるかわりに、挿絵そのものに生命をぶちこむだろう。


挿絵で世界を征服することを念願するだろう。挿絵は男子一生の仕事として、全霊をぶちこんで悔いることのない菩薩行である。(勿論、男女同様、女子一生の仕事としても立派であることは当然──為念)挿絵が、自分の生命を生かす最大の途であって、油絵や水彩が、余技ト考える挿絵画家が多くなった時、挿絵は文字通り最高の地位を占めるに至るだろう。


ブレークの「無染の歌」の挿絵みよ! モリスのケルムスコット・プレスの挿画をみよ! 美術史の上に永遠にのこり、百千万年のちの観賞家の心をも打つであろう。挿絵画家よ、自信を以て、不朽の傑作をのこしたまえ!(つづく)