2010-05-01から1ヶ月間の記事一覧

2010年6月28日〜7月3日に開催される「第41回日本出版美術家連盟作品展」(於:銀座・サロン・ド・ジー)会場でもご購入頂けます。

神保町・東京堂書店にて、お求めになれます。(TEL.03-3291-5181)

ご購読のお申し込みは下記宛て、ハガキまたはFAXかメールでお申し込みください。お支払いは、冊子と一緒に郵便振込用紙を同封いたしますので、冊子受けとり後に、お振り込みをお願いいたします。

A4判32頁、全頁カラー、定価1,000円+税50円+郵送料80円=1,130円。 〒157-0068東京都世田谷区宇奈根1-21-6 スタジオ・リンクス 星様気付 日本出版美術家連盟事務局販売部 fax/03-3749-8669 mail/e-hoshi@theia.ocn.ne.jp>

挿絵画家の団体である日本出版美術家連盟が刊行する「粋美挿画」創刊号が、6月6日から発売される。巻頭特集14頁「99歳でなおも活躍を続ける 挿絵画家・中一弥」、第40回日本出版美術家連盟作品展出品43名の作品を掲載。

「粋美挿画」創刊号表紙 「粋美挿画」巻頭特集、2-3p 粋美挿画」巻頭特集、4-5p 粋美挿画」巻頭特集、6-7p 「粋美挿画」巻頭特集、8-9p 「粋美挿画」第40回日本出版美術家連盟作品展出品作品

下高原健二(しもたかはら けんじ、1914〜1992)代表作に「坂の上の雲」の挿絵のほか、渡辺淳一の『愛のごとく』、『まひる野』、今東光の『明日また』、大岡昇平の『天誅組』の挿絵などがある。

「坂上の雲」は産経新聞(夕刊)」に1968(昭和43)年4月22日 〜1972(昭和47)年8月4日にかけて、4年半にわたり計1296回連載された。構想期間も含めると10年間に及び、司馬遼太郎は40代のほぼすべてを費やしたという。この小説は1999(平成11)年から 2…

日本出版美術家連盟の物故者略歴作成に着手した。来年6月刊行予定の「粋美挿画」第2号から、旧会員の作品と略歴「素晴らしい先輩たち」(仮題)を毎回6人ほど掲載していこうという企画での執筆を依頼された。 

岩田専太郎や高畠華宵、手塚治虫、名取春仙、山口将吉郎、山川惣治、茂田井武、梁川剛一、齊藤五百枝、小松崎茂、志村立美などなどそうそうたる面々が登場するが、このような知名度が高く、画集や自伝、エッセイ集などの著作物がある場合は、略歴を作るのも…

大正4年11月に刊行された告別号を最後に公刊「月映」が廃刊され、発表の場を失っていた恩地孝四郎だが、「感情」への参加により新たな表現の場を得ることができた。「感情」2号に犀星が発表した「抒情小曲集」の冒頭に木版画1点を寄稿したのをきっかけに、第4号からは表紙のデザインにもかかわり、版画の発表もたびたび行っている。

表紙のデザインについて1号から3号まで表紙意匠を担当した朔太郎は「この雑誌の装幀は、表紙の意匠から釘装まで、僕がすっかり自分で考へ、ただ表紙に入れる絵だけを恩地孝四郎君に描いてもらった。」(「詩壇に出た頃」)と自分が装幀を担当していたことを…

公刊「月映」は、限定200部で刊行されたが「十一部しか売れないことがあった」というように、出版物としては失敗に終わってしまった。が、そんな数少ない購読者の一人に萩原朔太郎がいた。朔太郎は、詩の仲間でもある孝四郎に、出版予定している処女詩集の挿絵画家の相談を持ちかけ、資質の似ている恭吉を紹介される。「月映」を通して恭吉の作品に「驚異と嘆美の眼」を見張っていたという朔太郎は、恩地を通じて早速依頼する。

恭吉は快諾するが、刊行を待たずに夭逝。孝四郎は恭吉の遺志を継いで編集、装丁、挿絵を引き受け、恭吉の遺作11点に、孝四郎の「抒情よろこびあふれ」など3点を巻末に載せ、およそ2年の歳月を経て刊行にたどり着く。 恩地孝四郎:装丁、萩原朔太郎『月に吠…

孝四郎は「一枚の絵を所蔵することよりも一夕のシネマに十分充実した贅沢を味わふ民衆のいかに多数であるか。……画家の仕事が文士のそれのやうに一枚の原画をかきそれを、印刷複製して、多数にして社会に提供する様な方式が成立するといいのだが……工芸と純美術この別があつてはならない。否、ある筈がない。美術即実用」(「アトリエ」昭和4年)と、夢二に学んだ複製芸術論を進化させ、「僕の一番興味があるのは、市場でゴロゴロころがされ、足蹴りにさえされる、公刊本の装本だ。」(「装本雑俎」『書窓』1935年)という独自の装本理論を導

さらに「すぐれた芸術は万人に通ずる根源の生命を保持する。人々はより高き、より深き、より正しき、より美しき精神を以てその未来への生活を保たなければならない。芸術によつて生きる世界こそ人類が把握しうる幸福な世界がある。……万人の芸術を求めよ。」…

宇野浩二は、夢二本のヒットがよほど気に入らなかったのか『春の巻」についての竹越三叉の書簡にもクレームをつけている。

「“……若し夫れ兄の画才に至りては天稟(*てんひん=生まれつき備わっている才能)他人の企及するところにはあらず、無声の詩の文字今更深き意義あるを覚え申し候……”と書いてうゐるのもまんざらの世辞ではない。ただ、この言葉のなかの“画才に至りては天稟”と…

竹久夢二『春の巻』誕生の裏話

宇野浩二は『文学の青春期』に『春の巻』に関して多くの行を割いている。「夢二が自作の絵の版木をたくさんもってゐる、それをもちこんで来たのに心をひかれ、また、その絵がすきになり、あまりうれなくても、たいした損はしないといふほどのつもりで出した…

洛陽堂・河本亀之助について『画文共鳴』(岩波書店、2008年)の著者・木股知史さんから新たな情報を教えていただきましたので、ご紹介します。

出典について「河本亀之助の事項については『河本亀之助追悼録』(1921年1月、河本テル発行)所収の、関寛之“河本亀之助氏の生涯”、高島平三郎“追想録”を参照した。」(木俣知史「スケッチという概念をめぐって─画文をつなぐもの」甲南大学紀要、2009-03-25…

洛陽堂・河本亀之助について調べようとしたが、資料が少ないようで、なかなか全容がわからない。そんな中、小田光雄「洛陽堂河本亀之助」(「日本古書通信」第967号、日本古書通信社、2010年2月号)を見つけた。小田氏も「著名な出版社であるにもかかわらず……出版史にもほとんど姿を見せていない。」として、「文学者の回想にたよることとなる」と前置きをしながら宇野浩二『文学の青春期』(乾元社、 昭28年)の「洛陽堂と東雲堂」を紹介している。私も早速購入して読んでみた。

小田氏の要約の方が簡潔にまとめられているので、そちらを紹介すると「河本亀之助は明治末期に築地印刷所の重役であった。ところが金尾文淵堂の金尾種次郎を信用しすぎ、大きな損害をこうむったために、印刷所を辞め、出版社の洛陽堂を始めることになった。…

想定外の評価?

そういう孝四郎が雑誌・公刊「月映」第V号(洛陽堂、1915〈大正5〉年3月)に発表した、日本近代美術史上最初の抽象作品と言われている「あかるいとき」にしても、「美術新報」第12巻第10号(東西美術社、大正2年8月)に掲載されたブールリツク(ブルリューク…

1920年、ブルリュークとパリモフの来日、1922年、ブブノワの来日などによりロシア構成主義が伝えられ、1923年にはベルリン留学でダダやバウハウスの影響受けた村山知義が帰国し、日本にも前衛的な美術運動が展開された。1920年、普門暁が率いる「未来派美術協会」が設立され、1922年、神原泰の「アクション」が、1923年には村山知義が中心になって「マヴォ」が結成された。これらの運動が孝四郎の装丁にも大きな変化をもたらす。

恩地は村山知義の著書『構成派研究』(中央美術社、1926〈大正15〉年2月)などを読んでいたと思われ、 「機械的要素の芸術への導入の次には芸術の機械化がくるのは当然である。芸術品の個々の手工芸的制作は中世期的であり、ブルジョア的であり、不必要なぜ…