七人の挿絵画家が競う「我が作品のラブシーン」(『傑作小説』)

『傑作小説』(東西出版社、昭和23年11月)の巻頭・四色「我が作品のラブシーン」で、名作7作品の挿絵をそれぞれ7人の挿絵画家が描き腕を競っているのを紹介しよう。

 

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山本武夫:表紙絵、『傑作小説』(東西出版社、昭和23年11月)

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今村恒美、目次挿絵、『傑作小説』(昭和23年11月)

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富永謙太郎:挿絵、田村泰次郎肉体の門」(『傑作小説』昭和23年11月)

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野崎耕作:挿絵、邦枝完二肉体の門」(『傑作小説』昭和23年11月)

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今村恒美:挿絵、角田喜久雄「髑髏銭」(『傑作小説』昭和23年11月)

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木村荘八:挿絵、長谷川伸「股旅草鞋」(『傑作小説』昭和23年11月)

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山本武夫:挿絵、子母澤寛「にっこり三之助」(『傑作小説』昭和23年11月)

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清水昆:挿絵、村松梢風「石榴」(『傑作小説』昭和23年11月)

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土ケ端一美:挿絵、大佛次郎「雪崩」(『傑作小説』昭和23年11月)

 

近藤浩一路:挿絵、佐々木邦『珍太郎日記』の挿絵


近藤浩一路:挿絵、佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、大正11年3月6版、文庫本、布装上製本)は、佐々木邦が月刊誌『主婦之友』(大正9年)に連載したエッセー12編に近藤浩一路が挿絵を寄せたものを1冊にまとめたもので、84点の挿絵が挿入されています。

 

今回は、その中から20点を紹介させていただきます。挿絵の内容が理解できるように、文章も一緒に取り込みましたので、そのまま1ページを掲載します。

 

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近藤浩一路:挿絵佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、 大正11年

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近藤浩一路:挿絵、佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、 大正11年)2-3+4

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近藤浩一路:挿絵、佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、 大正11年)1-5+6

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近藤浩一路:挿絵、佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、 大正11年)2-5+6

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近藤浩一路:挿絵佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、 大正11年)2-7+3-1

近藤 浩一路(こんどう こういちろ)1884年明治17年)に山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれた日本画家であるが、漫画家としても名をなした。 裕福な家庭に恵まれ医者になるよう期待されていたが、浩一郎本人は文芸誌への投稿や俳句などにのめり込んでいき、20歳で東京美術学校西洋画科に入学した。 在学時代は西洋画を軸に学んだが、水墨画や文芸活動にも手をだすなど多面性を見せている。 卒業後は友人の藤田嗣治(画家、彫刻家)らと水墨画や漫画の展覧会を主催するなどしていたが、結婚を機に読売新聞社に就職し、政治漫画や挿絵を担当することになった。 夏目漱石の「坊ちゃん」の新潮文庫版に挿絵を描いているが、ほのぼのとした表現で見るものを微笑ませる。 交流のあった芥川龍之介は「画そのものの滑稽な漫画であり、威儀を正しさえすれば、一頁の漫画が忽ちに、一幅の山水となる」と評している。(「発光堂」)より。

 昭和37年(1962)歿、78才。

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近藤浩一路:挿絵、佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、 大正11年)2-2、2-3

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近藤浩一路:挿絵、佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、 大正11年)3-5、3−7

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近藤浩一路:挿絵、佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、 大正11年)1-3+4

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近藤浩一路:挿絵、佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、 大正11年)2-1+2

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近藤浩一路:挿絵、佐々木邦珍太郎日記』(弘学館書店、 大正11年)3-4、3+5



 

鏑木清方:画、村井弦斎『食道楽』の口絵

鏑木清方:画、村井弦斎『食道楽』の口絵】

昨日、西武池袋線保谷駅周辺に昭和25〜35年ほど前から今もつ続いている店を調べに出かけ、そんなテーマとは関係なく、古書店「アカシヤ書店」の店頭に並んでいる古書に惹かれ足を止めてしまいました。古書店に足を踏み入れるのは、7〜8年ぶりになる。

 

手にとって読み始めるとついこの続きは家で読もう、なんて言い訳をしながら4冊を購入しました。

今日は、そのうちの1冊、村井弦斎『食道楽』(玉井清文堂、昭和3年)の鏑木清方:画・口絵9点を紹介させていただきます。

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村井弦斎『食道楽』(玉井清文堂、昭和3年

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鏑木清方:画、村井弦斎『食道楽』(玉井清文堂、昭和3年)口絵

この本には、口絵の説明も、画家名も帰され例ないので、いったい何の絵なのか、誰が描いたのかなどさっぱりわかりません。画家名だけは署名から鏑木清方だということが分かった。

 そもそもこの本がどんな本なのかというと、いろいろな料理を食べた感想を脚本仕立てにしたエッセイのような本です。

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本文の一部を転載させてもらうと

──主人の小山先ず椀の蓋を取りてお毒見にと味を試み

  「ウム、是れは美味く出来た、中川君、此の田毎豆腐を遣って見給へ」

  中川も箸を執りて椀の中を覗き、

  「田毎豆腐とは初めて聞いたが、オヤオヤ、豆腐の中に玉子が入れてあるネ、田毎  の月と云ふ譯か、味も大層結構だ、何う云ふ風に拵えるのだ」

 というような感じです。

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鏑木清方:画、村井弦斎『食道楽』(玉井清文堂昭和3年

四六判、布総上製本辞書風、総ページ数576ページにも及ぶ分厚い本だ。

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鏑木清方:画、村井弦斎『食道楽』(玉井清文堂昭和3年)02-960のコピー

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鏑木清方:画、村井弦斎『食道楽』(玉井清文堂昭和3年)02-960のコピー

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鏑木清方:画、村井弦斎『食道楽』(玉井清文堂昭和3年)02-960のコピー

これが著者の村井弦斎なのか? 

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鏑木清方:画、村井弦斎『食道楽』(玉井清文堂昭和3年)02-960のコピー

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鏑木清方:画、村井弦斎『食道楽』(玉井清文堂昭和3年)02-960のコピー

 

「岸田劉生と木村庄八 素描礼賛」展に行ってきました。

【「岸田劉生と木村庄八 素描礼賛」展に行ってきました!】
日光美術館の学芸員・S氏から「岸田劉生と木村庄八 素描礼賛」(於:浦和美術館)展の招待券が送られてきたので、ギャラリートークが行われる日を選んで行ってきました。
 「木村庄八と岸田劉生」の挿絵については、私も何度か講演をしたことがあり、興味津々でした。
 素描とは、鉛筆画や木炭画、パステル画などを指すのかと思っていましたが、挿絵原画も素描の範疇に入るようですね。
 挿絵というと主に印刷物になった物を指す物だと思っていたので、挿絵の原画展という物は、版画の板の展覧会のような物ではないかな? などと考えながらギャラリ−トークを2時間ほど拝聴しながら、挿絵原画などを拝見してきました。

画像に含まれている可能性があるもの:2人

しん散歩(16)…石神井川沿い、都営第七住宅

【しん散歩(16)…石神井川沿い、都営第七住宅】
・写真上=田無町都営第七住宅、昭和35年(1960)撮影
・写真下=上と同じ場所を平成30年(2018)11月撮影
 今は、西東京市南町4丁目アパートというようです。旧田無町では、昭和26年から都営住宅が建ち始めました。昭和40年までに26箇所、1806戸が建設されました。はじめは戦災による罹災証明書を持つ人が多かったが、昭和30年代になると都市近郊に住まいを求める人の需要が増えました。


エレベータ据付工事をやっていましたが、5階建てとは……。住民は覚悟の上でしょうが、宅配便の再配達や、生協、人数の多い家への出前、引っ越し、妊婦さん、年老いた知人、などなど、大変だっただろうな!


「小平団地ができて宅地化が進み、石神井川に放流する600〜1500ミリの排水管4本が数年間に設置された。従来は上流に下水や排水管もなく、降った雨は窪地に自然にしみ込み石神井川の氾濫もなかった。しかし、小平の排水管と田無の排水管によって、梅雨期や台風などの時には石神井川に一挙に水が流れ込むため、1965年には大雨が降るたびに氾濫をおこす状態となった。下水管の整備がす約爺川の氾濫を促進したかっこうになってしまったのである。」(『田無市史第4巻』)。 写真=石神井川の氾濫で浸水した住宅街(場所不明)、昭和40年(1965)撮影。


Satomi Koikeさんからのコメント…… 最近は下水道が整備された為に逆に大雨や台風以外は枯川に成っている事が多いですね。


お風呂や台所、洗濯機の水はどこに消えてしまうんでしょうか?どこかに流れているはずなんですが。


Satomi Koikeさんからのコメント…… 下水道を通して処理施設に集めて処理水を川に再放流するのですがこの辺りは何処に処理施設が在るんでしょうね?


清瀬市東久留米市西東京市の家庭から出る「ごみ」や「し尿」を処理している「柳泉園組合には、燃やせるごみの処理施設(柳泉園クリーンポート)、不燃・粗大ごみ処理施設、リサイクルセンター、し尿処理施設、その他の施設として柳泉園グランドパーク(温水プール・浴場施設・野球場・テニスコート)があります。」とありますので、西東京市のし尿処理も柳泉園で行われているようですね。


Satomi Koike ゴミ焼却施設だけではなかったんですね〜。


ありがたいことですね。保谷・久留米・田無三町共同し尿処理場は、久留米町野火止に昭和40年に建設されたようですね。


Satomi Koike 汚水処理場はその昔ひばりヶ丘団地の近くにも在りました。
カクタス自動車教習所と通り一本隔てた向かいだったと思います。


今、昭和62年の地図を見たら、カクタス自動車教習所の南側に、住宅公団ひばりヶ丘団地汚水処理場がありました。自動車免許を取得するときにこの道は何度も通っていたのに、運転に気をとられていたせいか、全く気が付きませんでした。


Satomi Koike 偶に臭いが漂って来ましたねw


戦後、田無では雨で水が溜まりやすく農地に適さないて一夜窪地の宅地化が進んだ。そうした地域の排水対策として下水の整備が昭和30年代から進んで行く。直径60cmの排水管を地下に埋め、低地の水を石神井川に流した。昭和40年までに12本の下水管が埋設されたが、その排水量石神井川の橋梁を越えさらに、上流の小平にも団地ができその排水も加わり、大雨が降ると氾濫すっるようになった。石神井川の氾濫はある意味人災でもあったのではないだろうか?


池田公雄さんからのコメント…… ご苦労様です。下水については、昭和40年頃は、整備がされていないと思いますが、いまでは、荒川右岸流域下水と称して、近隣の市「清瀬、東久留米、東村山、東大和西東京」で整備をしていますね。
 昔は、雨水と生活排水が一緒になる、合流式が多く、河川への負担は大きかったと思われます。ただ、河川の整備(護岸の構築、河床の掘り下げなど)で、水道が変わったとも言われ、大雨の時の洪水の原因は定かではないですね。また、別の側面では、気象変動により、大雨(例えば、日降水量100m以上とすると。)増えているのも、事実です。


最近の予想外の大雨で、川幅と深さの基準が、変わりそうですね。石神井川に水を流せないのは、1時間の最大雨量に対応する基準を満たしていないことも一因だと聞いたことがあります。新たに大雨が記録されると、また、川の幅、深さの基準も変わらなければならないのかな?


池田公雄さんからのコメント…… そうですね。現時点では、時間50mmの降雨量を河道で流せることを目標にしています。
 しかし、西東京市として見ると、石神井川は、まだ良い方で、白子川の方が、もっと厳しいのが現実のようです。私の感覚から言うと、旧田無市は、それなりによく頑張っていたと思います。旧保谷市の方が問題はありそうです。
 でも、気象の異常が常態化すると、頑張っているレベルのアドバンテージも、すぐに無くなってしまうように思います。


保谷市にはすり鉢状の水が溜まる場所や、地下水堆がある場所など、河川の氾濫などとは違う特殊な水害が多く、未だに大雨が降ると道路などが浸水しているのを見かけます。


昭和16年6月に田無上空からの空撮です。赤丸部分が南町4丁目あたりです。戦前は田んぼか畑だったようですね。戦後、一斉に住宅が建ったのがよくわかります。


皮肉なものですね、側溝や排水管工事が終わったら、今度は、梅雨時の少しの雨でも川が氾濫するようになってしまったのだそうです。写真は昭和30年代後半に撮影。


Satomi Koike 都市河川の抱える問題ですね。


石神井川の洪水対応策として作られたのが、この調整池ですね。市内には何箇所もありますね。普段はグラウンドとして利用されていますが、根本的な解決策にはなっていないような気もします。


Satomi Koike 遊水地(池?)と言う奴ですね。取敢えず一時しのぎですね、無いよりは全然良いのでしょうが。


近隣都市に比べて西東京市は何かと後回しにされることが多いような気がします。石神井川の川幅の拡張は、23区内(練馬区)でほぼストップ。西武線の踏切の多さは、数えことはありませんが、東京の市区ではベスト3に入るのではないでしょうか? ベットタウン化して、重要な産業がなくなってしまったことや、青梅街道を除いては渋滞が起きても問題にならないような道路しかないことなど、他にも原因はあるかも知れませんが、時代にに置いてけぼりくらっていることを良しとすれば、むしろそれはいいことなのかもしれません。


南町1丁目の調節池は、昭和55年に完成したんですね。そういえば私が引っ越してきた昭和59年以降はあまり床上浸水とか、洪水という話を耳にしていないような気がします。この調節池、以外と役に立っているのかもしれませんね。


戦後、旧田無町、保谷末には都営団地が次々に建設されましたが、当時は、お風呂が付いていなかったので、団地の近辺には銭湯があったようです。『田無の統計』によると、昭和47年、旧田無市には16軒もの銭湯がありました。市内銭湯巡りをやってみたかったですね。


銭湯が増えると、盗難被害なども増えていたようです。「田無・保谷に板の間(※浴場における窃盗)が横行……最近田無保谷の寮長の銭湯板の間(特に女湯)が横行 田無地区署では女湯のことでその捜査に行悩んでところまたもや九日午後三時半ごろ保谷町下保谷三0三九松の湯で入浴中の保谷町下保谷一五三九星トヨノさんは厳現金千九十円在中の財布、同町一五九八今津美津子三(三四)は現金三百円在中の財布をそれぞれ盗まれた。同署では銭湯に行くときは余分な金を持っていかないこと、脱衣所に挙動不審な人がいた時は直ぐ届け出ることを望んでいる。」(毎日新聞、1954年2月11日)と、板の間稼ぎが新聞記事になるほどでした。


山下 昭夫さんからのコメント…… そう言えば子供の頃銭湯に行ったときはロッカーが一杯で(あるいは無かったのかも?)床に置いた脱衣籠に衣類を入れて入浴してました。あれでは盗難事件など起きて当然な時代でした。


昔は皆んな性善説を信じていたのか、確か雨に不用心でしたね。私の場合は盗まれるものがなかったというのが本当のところです。


都営第六住宅(昭和35年撮影)。1軒だけ庭の片隅に風呂小屋を建てたのでしょうか? 風呂の煙突が建っています。


Satomi Koikeさんからのコメント…… 懐かしい、薪で焚く風呂釜の煙突ですね〜
実家でも小学生の頃までこの式のお風呂でしたよ。


火を焚く経験というのは良かったですね。人間が動物から人間に進化したのは火を起こすことを体得したからだと思っています。そんな原始からの歴史を体験しているようで、風呂焚きは大好きなお手伝いでした。

しん散歩(15)…古い写真は富士街道1丁目か5丁目か?

【しん散歩(15)…富士街道の古い写真は1丁目か、5丁目か?】


写真は『なつかしの田無・保谷…写真で見る西東京市の「昔と今」』(西東京市中央図書館、西東京市郷土資料館)から転載しました。写真左の場所と同じ場所いう写真右の平成5年に撮影された場所に行って、最新の写真を撮影しました。それが、下記の写真です。


左の古い白黒写真と、今回撮影した写真が同じ場所であるというのだが、どことなくしっくりこない。なぜなのか? 今回は、富士街道を北東方向(西武池袋線石神井公園駅方向)に向かって13時頃に撮影しました。影は右から左に投影されています。しかし昔の写真の影は左前方から右方後向に投影されています。
 つまり、白黒写真の左の写真と右の写真は同じ場所で撮影したのではないかという疑問が湧いてきました。左の古い写真は北東ではなく南西に向かって撮影されたものなのではないのか? 富士町1丁目ではなく富士町5丁目ではないかと思われますので、改めて検討してみようと思います。 
 


・写真上=富士街道(撮影年不明)、『なつかしの田無・保谷』より転載。)
・写真下=上と同じ場所を平成30年(2018)11月撮影。富士街道交差点から南西(西武柳沢方面)に向かって撮影。


 富士町1丁目にはかつて下田水車がありました。そして、その水車を回した田柄用水が富士街道には流れていたはずです。そう思って、白黒写真を眺めてみましたが、はっきりとした水路は読み取れませんでした。富士町2丁目には小字名が一里塚、高塚など江戸の街道を思わせるような地名がありましたが、保谷町から保谷市へと市政が施行された時に、それらの地名は地図上から消されてしまいました。


白黒写真があまりに古い写真なので、撮影場所がどこだったのかを決める手がかりがなかなか見つかりませんでした。下記の地図は、富士街道の富士町交差点から高塚交差点あたりの昭和12年の地図ですが、南側と北側に家と樹木があるのは高塚交差点と富士町交差点のあたりだけです。白黒写真が『なつかしの田無・保谷…写真で見る西東京市のむかしと今』のキャプションのとおりに「富士町1丁目付近」だとすると、富士町交差点しかそれらしい場所はありません。


滝島 俊さんからのコメント…… ですよね? なので、この2か所が候補なのですが、撮影方向が西だとすると、?高塚交差点より西(用水は左;南側)、?富士町交差点より西(用水は右;北側だが、手前で富士街道から北に90°曲がっているので、写真では写らない)かな? と思っているのです。
富士町交差点(撮影時期を昭和初期とすると、富士街道と関道の交差点)が有力でしょうかね?(水車小屋は撮影ポイントより東寄りか?)


撮影方向が西だとすると番地は富士町1丁目ではなく、富士町5丁目ということか? 昭和12年の地図を見ますと、富士町交差点の西側、富士街道北側の家の西側で田柄側用水は北に向かって曲がっていますね。つまり白黒写真右側の家の奥のところで曲がってしまたということですね。新たな資料が何か出てこないと、白黒写真の場所確定は難しいですね。


富士町交差点にあった『百札所巡礼成就塔』(寛政4年[1792]建立)『保谷の石仏と石塔一』より転載。現在は泉町・如意輪寺に移転されてこの場所にはない。最初の白黒写真とほぼ同じ場所だが、2枚の写真には、共通点が全くないので、場所の確定の役には立たないですね。


話は、白黒写真の場所の特定から逸れてしまいますが、写真の左端の石碑が、富士町交差点から如意輪寺に移転された『百札所巡礼成就塔』寛政4年[1792]建立。


保谷に自動車が入ったのは昭和の初め(1926年頃)で、乗用車はアメリカのフォードが1台だけだったそうです。当時、国産車は少なく、外国車が、95パーセントを占め、その大部分がアメリカ車でした。しかし、アメリカ車といっても完成品が輸入されたものは少なく、アメリカから運ばれた部品を組み立てたものが大部分でした。フォードとクライスラーは横浜、GMは大阪にそれぞれ組立工場が、ありました。」(『なつかしの田無・保谷…写真で見る西東京市のむかしと今』)と、自動車が保谷村?にあることが、すごいことだったようですね。


富士町交差点から南西方向を撮影してみました。電柱が道路の左側にあるのが、なんとなく白黒写真のイメージに近い感じがします。年月が経過しても電柱の位置は、あまり大きく変わることはないので、この場所はしっくっり来るような感じがします。


「ふじ大山道…現在の東京都練馬区から大山へ向かうものである。
富士山への参詣者も通ったため「ふじ大山道」と呼ばれ、それが明治期に入って「富士街道」の名で呼ばれるようになったものである。東京都練馬区北町1丁目の旧川越街道とふじ大山道の分岐点に、1753年(宝暦3年)下練馬村講中により「ふじ大山道 田なしへ 三里 府中江 五里」と陰刻された道標が建立されており、練馬区指定文化財となっている。東京都道311号環状八号線・東京都道441号池袋谷原線・東京都道8号千代田練馬田無線・東京都道12号調布田無線・東京都道・神奈川県道19号町田調布線・神奈川県道・東京都道57号相模原大蔵町線などが近似したルートを辿っている。
経路:川越街道下練馬村(東京都練馬区北町1丁目付近) - 田無(西東京市)- 別記[注※] - 押立の渡し(多摩川) - 長沼(稲城市) - 図師(町田市)− 府中通り大山道を経て大山へ  ふじ大山道
[注※]田無 - 押立の渡し間は、千川上水柳橋で渡り武蔵境駅方面へ向かったという説と、この説の道ができたのは明治以降であり、江戸時代には西武新宿線西武柳沢駅西側にある六角地蔵石幢から南へ向かう榎ノ木通り、深大寺街道、大師道(途中、境浄水場で中断)を通ったのではないかという説がある。また、途中の調布飛行場で道が消滅している部分があるといわれる。」(『ウィキペディアWikipedia〉』)。


トップのカラー写真を差し替えてみました。白黒写真を撮影した場所は、新青梅街道の北側に残る田柄側の暗渠の位置から判断すると、もう少し下がって富士街道と関道の交差点辺りから撮影したのではないかと思います。田柄用水は、カラー写真の「Joshin」の看板の手前(東)辺りを北に向かってながれ、新青梅街道を渡ったものと思われます。赤丸の所に田柄用水の暗渠がある。


昭和38年11月に富士町交差点を空撮した写真ですが、交差点の左に田柄用水が工事中の深奥ね街道を横断しているのが写っています。『百札所巡礼成就塔』があったのもこの交差点の左の角で、ちょうど新青梅街道によって削り取られたあたりです。


新青梅街道ができる前は、白黒写真の右側の家は青梅街道を横切る田柄用水の東側にあったとすれば、このくらい東側から撮影していたようですね。


庚申塔 富士町1の16の16  この庚申塔は、一里塚に次の大乗妙典供養塔とともに富士街道の北側に立っていたが、宅地造成のため如意輪寺の住職墓地の前の南に昭和35年に安置されている。元あったところには、今は一力菓子店になっている。桶屋の下田粂吉さんと奥さんの話によると自分の地所にあったので、如意輪寺へ墓参或いは地蔵さんの日には花や線香をあげて供養しているとのことである。」(『保谷郷土史研究会資料』)時されており、駄菓子屋「一力屋」の建物ができる以前は庚申塔と大乗妙典供養塔があったようだ。写真は、今は閉店してしまった駄菓子屋「一力屋」。


如意輪寺の墓地にある石仏移転を示す看板。この看板によると、4基並んでいるうちの右の2基が、富士街道沿いの上保谷村字一里塚から、移転されてきたもののようです。


富士街道練馬区との市境に高塚という交差点があります。交差点の南西が富士町三丁目、北西が富士町2丁目。高塚という地名は今は無くなってしまい、交差点名にだけ残っています。高塚の「塚」というのは、
「築 (つ) く」から出た言葉で,高く築いた場所をさしており,人工的に土を丘状に盛った場所をいう。畏怖され,神聖視されていることが多い。塚は,本来その場所が墓所であったとか,かつての祭場,祭壇であったと考えられてきているが,同時に平地よりも一段高くなったところを神聖視するという考えも古来からあった。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より)、とありますが、この辺には、現在それらしき塚は見当たりません。小字名「高塚」といわれていたくらいだから昔は「塚」があったのだろうか?

地元・西東京市の地名のルーツをsぐる

【田無地方史研究会に行ってきました12.16編】
 この日のテーマは
・「土地の沿革…保谷パークハウスの敷地について」石井晴一
・「田無村検地帳の復元」近辻喜一
 石井さんの話は、私が住んでいる場所の沿革なので興味津々でした。その土地の歴史を知るということについては、一級建築士の村井修さんから『ゲニウス・ロキ』(事物に付随する守護の霊という意味の「ゲニウス(Genius)」と場所・土地という意味の「ロキ(Locī)」の二つのラテン語をもととし、場所の特質を主題化するために用いられた概念。物理的な形状に由来するものだけでない、文化的・歴史的・社会的な土地の可能性を示す。日本では「土地の精霊」または「地霊」などと訳される。)を教えていただいてから、ますます地元の歴史や風俗などに興味を持つようになりました。


 検地帳に関しては、検地の具体的な方法や、下保谷村検地帳などに興味を持ち始めていたところでしたので、この日の近辻さんのお話は、一言漏らさず楽しく拝聴させていただきました。


これは『下保谷村検地帳』(寛文3年[1663])ですが、私は、同じ資料を使っていても耕地面積や年貢よりも、今は西東京市の昔の地名(小字名)に興味を持って調べています。
 例えば、現在は「坊が谷戸(ぼうがやと)」と呼ばれていますが、地検帳では「ほうかいと」と記されています。つまり「ほうかいと」という地名に「坊ヶ谷戸」という漢字を後で「当て字」したのではないかと推察しています。


これも『下保谷村検地帳』(寛文3年[1663])に記された「坊かいと前」という表記です。ここではとりあえず「前」は除きます。一字だけ漢字が使われていますが、下のひらがなの部分にも漢字を当てはめると「坊(ぼう)・谷(かい)・戸(と)」となり、「ヶ」は不要なのではないかと思っています。


「旧下保谷村のチョウバと小字の図」では、赤丸部分では「坊が谷戸(ぼうかいと)」とルビをふっています。坊が谷戸の読み方は、「坊ヶ谷戸」(ぼう・かい・と)と読むべきものなではないのか、とおもいます。


これはほんの一例ですが、地名が時代とともに変化してきています。現在使われている呼び方でも特に不便はなく、それが間違いだというわけでもありませんが、地名の沿革を知ることで、そこの土地のかつての地勢や利用され方、産業なども理解することができます。