2010-04-01から1ヶ月間の記事一覧

恩地孝四郎が装丁家として飛躍的に成長したのは、詩人・北原白秋との出会いであろう。孝四郎の実家が、小田原の白秋の家の近くに引っ越したことから、孝四郎と白秋は急に親しく付き合うようになった。白秋の弟・鉄雄が大正6年に出版社アルスを設立すると、白秋はそれまでは『邪宗門』(東雲堂、大正5年)など自分の著書は自分で装丁していたのを孝四郎に依頼するようになった。アルスからの初仕事『白秋小唄集』(アルス、大正6年)は、ベッチンと呼ばれる臙脂の綿ビロードに、ユリの花を図案化した模様を全面に金箔押した豪華なもの。

恩地孝四郎:装丁、北原白秋『白秋小唄集』(アルス、大正6年) その後も、アルスから刊行される本の多くは恩地に装丁を依頼し、恩地は古代ギリシャ・ローマの建築に柱頭文様として使われたアカンサスの葉飾りや葡萄蔦などを取り入れて「おんじ式」と呼ばれ…

「夢二学校」に集まった東京美術学校の生徒たちが「月映(つくはえ)」刊行

田中恭吉、藤森静雄、孝四郎の三人が版画誌「月映」の創刊を思い立ったのは大正3年3月のこと。三人が表現手段として版画を選択した動機については、まずは夢二の本が木版画で作られていたこと、そして、夢二学校の仲間である香山小鳥が美術学校の本科への…

恩地は夢二がつくる水路に流れ込む水のように、『春の巻』の一読者から始まり、「都会スケッチ」「桜さく国」の投稿者となり、『悪魔研究』では装丁を手がけるというように、徐々に書物の製作者へと導かれていった。夢二の孝四郎に寄せる思いは強く、夢二の著書57点のうち、装丁を他人に任せたのは、孝四郎にゆだねた『どんたく』『小夜曲』『夢二抒情画選上・下』3点のみであり、孝四郎への信頼の高さが伺われる。なお、この頃にはまだまだ装丁家名を表記するのは少なく、まして執筆者と並記されるのは稀なことであるが、『どんたく』には竹久夢

恩地孝四郎:装丁、竹久夢二『どんたく』(実業之日本社、1913〈大正2〉年) 恩地孝四郎:装丁、竹久夢二『どんたく』(実業之日本社、1913〈大正2〉年)、竹久夢二の名前と恩地孝四郎の名前が並記されている前扉 恩地孝四郎:装丁、竹久夢二『小夜曲』(新…

夢二学校では特別に優遇されていたと思える孝四郎は、夢二に『春の巻』の版元である洛陽堂・河本亀之介を紹介され、西川光二郎『悪人研究』の装丁の依頼を受ける。20歳にして、生涯を支えることになる装本を初めて手がける試みがこの本である。洛陽堂は、平民新聞系出版物の印刷人であり、夢二の主著や雑誌『白樺』を発行していた出版社で、後に恩地が田中恭吉、藤森静雄と作った同人誌『月映』(1914年創刊)もここから発行された。

洛陽堂については宇野浩二が 「今の大抵の人は夢二の絵本が洛陽の紙価を高めた頃のことをほとんど知らないであろう。が、『夢二画集』──〈春の巻〉〈夏の巻〉〈秋の巻〉〈冬の巻〉──を出した洛陽堂といふ本屋の主人の河本亀之助と、私は大正七八年頃に逢った…

この本、恩地の装本であって欲しいが……

下記の本も誰が装丁したのかわからないが、恩地孝四郎の装丁であって欲しいとの願いを込めて購入してきたもの。この『ダンテ詩集神曲』は、古書を手に取りながら、「恩地と洛陽堂とは確か明治末からつきあいがあったはず」というただそれだけのことで、なん…

久しぶりに高円寺の古書市に行った。リュックがいっぱいになると結構嬉しい。時代小説の挿絵画家・岩田専太郎や馬場射地などを中心に集めたが、中に、恩地孝四郎の装本が何点かあった。いずれも格安の150円〜500円なのが嬉しい!

岩田専太郎:画、邦枝完二『振袖役者』(家庭社、昭和22年) 山本武夫:装丁、山手樹一郎『おんな八景』(新小説社、昭和24年) 馬場射地;画、武野藤介『好色一代女』(福書房、昭和31年) 恩地の装丁本の架蔵書は600点程あるが、下記の2点は見覚えがなく…

孝四郎は夢二主宰「都会のスケッチ」(洛陽堂、明治44年6月)にも絵を寄稿する。

竹久夢二:画「都会のスケッチ」(洛陽堂、明治44年6月) 「都会のスケッチ」(洛陽堂、明治44年6月)扉(左)、表紙(右)。表紙には5名の落款(サイン)が掲載されており、扉にはそれら夢二学校にたむろする青年たち5人の名前が記されている。左から二番目…

憧れの竹久夢二から恩地孝四郎宛てに「お手紙うれしく拝見しました。諸方からうける批判のうちにて最も胸にしみてうれしかつた。君と逢つて話がしたい。遊びに来てくれませぬか。第二集についてもいろいろと考へてはいれど恐ろしいものを生むようにおもへて全く手が出ない所です。長い手紙をよむだ。それに対して沢山の言いたいことがあるけれどまづまづハガキにて。」(明治42年12月21日消印)という、まるで恋文のような返信がきた。この手紙が機縁となり、孝四郎は麹町の自宅近くに住む夢二の家に足繁く通い詰めるようになる。

このころの様子を恩地は「幼少から画ばかりかいてゐた僕だったが決して画かきになるつもりのなかった僕が忽ち、次年春、美術学校を受ける熱意にまで到達したといふのは即ち夢二氏のあるあったからである。但し一度も夢二氏がそれをすすめたのではない。夢二…

昨日、実践学園での3回目の講座「エコで奇抜な素材を使った齊藤昌三の美しい装丁」を終え、前期の講座が完了した。この最後の講座の受講生が「海苔」を使った装丁の齊藤昌三『当世豆本の話』(青園荘、1946年)を持ってきてくれた。初めてみる噂の「海苔を使った装丁」の登場に度肝を抜かれた。どうやって制作したのか? 表面が光っているが透明漆でも塗ってあるのか? などなど疑問が次々に湧いてくるが、解決の糸口はなく、制作にまつわるエッセイ等もまだ読んだことがない。奥付には、「少雨荘齊藤昌三著すこの書物は當世豆本の話と稱し、

造本:内藤政勝、齊藤昌三『当世豆本の話』(青園荘、1946年) 造本:内藤政勝、齊藤昌三『当世豆本の話』(青園荘、1946年)、見返しの右側の暖簾には、桃を割ったようなマークが印刷されているが、これは齊藤昌三の家紋のようなもの。江戸時代には女陰を表…

恩地孝四郎の夢二に宛てた『春の巻』読後感想の手紙は、さらに鋭く突っ込む。「私は序の次の絵を好みます。若々しい点に於て。米を研いでいる絵──古いのだと思ひましが──あれも同じように好みます。『はるさめ』『赤い日』『かくれて別れたら』『おもひこがれて』(版が悪くて──)なんどの傾向を恐れます、『光れるレール』とか『卒業したければ』とかいふ風なのは私は貴兄の絵に見たくないのです。俳画に近くはないでせうか。私は嘗て親しい友に兄の絵を詩画といふべきだと描いたことがある。又は詩のような画といふ点に於て貴兄の画の価値を

煙を吐てる山のよふに。女の絵と平行してゆくやうに書いてほしいのでした。私は『カタソデ』の次の画を好むものです。けれど何だか未醒の画のやうで物足らないのです。心の蟠りは大抵云って了った様です。」と。 竹久夢二:画、「米とぎ」(『春の巻』明治42…

執筆者が驚く! 恩地孝四郎の関連資料を集めようと「日本の古本屋」で検索をかけてみると、なんと私が5年ほど前に書いた「恩地孝四郎の装丁1」(「紙魚の手帳」33号、2005年、定価500円)が2,000円で売られているのをみつけた。「紙魚の手帳」は多川精一さんが自費出版して、知人に配っていたもの。流通させたのは、私が原稿料の代わりに20冊程いただいたものを東京堂書店の佐野さんと書肆アクセスの畠中さんにお願いして置いてもらった程度。多川さんが86歳になり36号で終刊した。「紙魚の手帳」に毎号12ページほど執筆し

「紙魚の手帳」33号、35号 「恩地孝四郎の装丁1」(「紙魚の手帳」33号、2005年) 「恩地孝四郎の装丁1」(「紙魚の手帳」33号、2005年) 「恩地孝四郎の装丁2」(「紙魚の手帳」35号、2005年) 1昨年、「紙魚の手帳」全36巻セットを15,000円で販売したら、…

ではなぜ、孝四郎は唐突に美校に進もうとしたのか。後に自身の言葉で次のように言っている。

「幼少のころから画ばかりかいてゐた僕だったが決して画かきになるつもりのなかった僕が忽ち、次年春、美術学校を受ける熱意にまで到達したといふのは即ち夢二氏のあるあつたからである。但し一度も夢二氏がそれをすすめたのではない。夢二はさういふおせつ…

竹久夢二の『夢二画集 春の巻』(洛陽堂、1909〔明治42〕年12月)を購読した恩地孝四郎は、その感動を手紙にしたためて夢二宛てに届けた。その時の手紙の全文が、夢二の第2作目となる『夢二画集 夏の巻』(洛陽堂、明治43年4月)の巻末に掲載された。その手紙の書き出しの「私は今日学校の帰りを親しい友──やはりあなたの画がすきな──」とあり、この「学校の帰り」とはどこの学校に通っていたのかが気になって調べてみた。

後の「書窓」の発行人でもある志茂太郎は、「画集『春の巻』への、画学生恩地孝四郎青年ファンレターである。……あの手紙の始まりの『今日学校の帰りを』とある学校は当時の上野の美校なのであるが、手紙をキッカケに両者の親交が急速に深まって、何と、いつ…

完売御礼! 本日、「本の手帳」のバックナンバーの注文があり調べてみたら、創刊号と6号が完売しました。ありがとうございま〜す。

昨日は「師・夢二が憧れた前衛美術家・恩地孝四郎の装本」を講演してきた。パソコンでスクーリーン・データを作って放映しながらの講演だったので、講演はだいぶ楽だった。しかし、準備は強烈に大変だった。何せ、自宅の本棚は整理が悪いので、毎日、スキャ…