ちかごろの週刊誌や日刊紙ではその専太郎のような人たちにほかに、既成画壇の人たちがいろいろ登場してきます。鈴木信太郎、硲伊之助、宮田重雄、宮本三郎、猪熊弦一郎、佐藤泰治、小磯良平、生沢朗、風間完、寺田政明、朝倉摂その他の諸氏、最近はアヴァン・ギャルドの阿部展也まで描きはじめています。おもしろいことは、ということは民衆から離れた場で描くわけにはいかないということなのですが、アヴァン・ギャルドでさえリアリスティックなあるいは自然主義的な絵を描かないわけにはいかないこと。たとえば猪熊の場合でも風景を描くと全く自然



宮田重雄:画、石川達三「四十八歳の抵抗」





これならば岡本太郎だってさしゑを描いてみればいいと思います。どこかで描かせればいいと思います。どんな絵を描くか、あるいは描かないか、それとも描けなければ、しかし、ウソだと思うのです。


私はさしゑの道はなければならないと思う。それは岩田専太郎・鴨下晁湖・志村立美・木下二介・鈴木朱雀・神保朋世・山本武夫・古くは小村雪岱・清水三重三・田中比左良などがとってきた道、それをそのまま正しいと思わないとともに、タブロー画家が筆のすさびなどとお上品なことは言わなくても腕の見せどころあるいは割に事務的な収入の道をはかるための仕事としての言わばアルバイト道、それももちろん正しいとはおもいません、


けれども民衆から親しまれなかったら成り立たぬところに、さしゑの道のきびしさと切れない関係において存在する安全性とでも言ったもの──どこかへいってしまうかわからぬ誰のために描くのかわからぬということと反対のもの──がある。それはいわゆる大衆迎合生ではありません。マスプロにおいてはじめて、「大衆の欲する方向において大衆を一寸でも五分づつでもひき上げてゆく」ことの可能性があり得ると思います。さしゑは一生けんめい描かなければならぬものです。やりばえのある仕事でなければならぬはずのものです。


中国に年画というものがあります。正月になるとどこの家の壁にも貼りかえられて、一年中目にふれるものです。それを俗悪な絵だと言う人がある。日本はフランスについで美術的に高い国だとそういう人は言いがちです。しかし民衆は大体似たようなものです。日本でも最大多数の人たちのよろこぶ絵と言ったら、ずいぶん低いものにちがいありません。それを少しづつでも高めていくことが、さしあたってのさしゑ画家のつとめであり、出来ることだと考えます。


 新しいタイプのさしゑ専門画家が出なければならず、出ると思いますが、それまではよし正しくなくとも今までの人たちが描いてゆくより仕方がないでしょう。
 以上は続けてゆく時評の前おきでした。