口絵
……例へば「口絵」といふ、明治時代特有といってもいゝ一つの画式あることなど、面白い点である。これも名称は一応雑誌なり単行本なりのトップにある絵だからそれで口絵──といふ意味ではあれ、一頃の文芸倶楽部や新小説あたりの「口絵」の持っていた意義性質は、畢竟さういふ画式として特殊な、大した格式のあったもので、鏑木清方先生なども何かの書きものに、自分も早く口絵がかきたいと思つたと述懐されてゐた。
その口絵といふのは、言ひ代へれば木版極彩色口絵のことであっておよそ挿絵の王座に座し、その豪華版に当たる一つの存在と云っていゝ。曰く桂舟、曰く半古、曰く年方、曰く栄洗、曰く清親、曰く永濯等々……これは今次第不同に並べたに過ぎないが、明治の中頃には、優に「口絵芸術」とも称す可き盛観があつたのである。清方先生がこの殿将であつて、同時に次の時代──我々へかけて──の所謂「挿絵」年度の先陣となる方だらう。
矢張り試みに昔の出版物の目次欄で検索しても、口絵にはその筆者何々画伯と明記してあるに引きかへて、はんしたの方の挿絵画工の存在なり待遇に至っては、ルビ活字の触れ出しさへも無い。
コマ絵
コマ絵は細かい絵と云う字の意味だらう。或ひは小間絵とでも解釈して印刷物の小間を埋める絵と云つたやうな意味から来た名かも知れないが暫く疑問とする。ところがこれも明治の口絵、今日の挿絵といふに等しくコマ絵と云ふ一つの特定画式として、一時、非常に流行を見た場合がある。──これは先の口絵隆盛時代を雑誌の文芸倶楽部・新小説時代に併行すると見れば、コマ絵は次ぎの文章世界・ハガキ文学・新古文林等々諸雑誌が明治の後年に隆盛だった時代の産物と見ていゝ。同時にこれが日刊新聞にも盛んに登場したことがある。
コマ絵の定義と云って別段やかましいことはないやうなものゝ、その性質として、口絵と異なり、又さしゑともこれが別なのはテキストの無いことである。後にも先にも挿絵とある以上はこれには本文テキストが無ければ體を成さないに反して、コマ絵は、却ってテキストがあっては面白くない程である。絵の領域を比較的純粋「絵」だけで主張し且存在したと云つていゝだろう。
この先輩作家は黒田清輝氏を初めとし不折氏、藤島氏、長原孝太郎氏等、これに當り、コマ絵からやがて再出発したものに漫画乃至俳画があったと云つていゝやうだ。この先達に芋銭氏、為山、小杉氏等々がある。平福百穂氏などもこの中に数へられるかも知れない。そのうちに明治も最晩年に至ると、山田實氏、太田三郎氏、橋本邦助氏、與平氏、夢二氏……等のコマ絵専門家の輩出があつて一つの時代を作った。與平・夢二スタイルの喧傳は
所謂ホン画に対して一敵国を成したものである。
総じて口絵の人も又はんした挿絵の人も、テキストに従つて描く側の画人は、十中九まで、日本画畑の出であったのが、一轉してコマ絵時代となると、こゝへ登場する作家は、反對に十中九迄、洋畫畑のものが多かったのは一つの特色と見ていゝ。それともう一つ口繪乃至はんしたに對するコマ繪の一特色は、前者が写実的と云ふことの出来る畫式を肯とするに對し、後者は屢々装飾的に無阻自由なことである。芸術的に見ればコマ絵が従来一般のさしゑ類に優らうとする一方に、絵をかく「腕」そのものから見れば、コマ絵は先人達程叩いた腕でかゝずとも行きそうに見える。イージーで、ルーズなところが有つた。
コマ絵は一時新聞も雑誌も一群の投書家──今で云へば各展覧会への出品者群──を従へて、非常な隆盛を極めたものであつたにも拘わらず、コマ絵そのものゝスタイルは遂に大成せずして衰へた一つの原因は、矢張り、その「叩かない腕」に基づいたゞろう。その出発はコマ絵からであっても中途精通して腕を叩いた一頃の作家は、その画業が大成するや、一段上部のスターと成つて画壇へ再登場した大名が少なくない。川端龍子もその一人に数へられやうし、古い文章世界の投書欄には、堂本印象氏の活躍が却々華々しかつた、等々。