春陽会「挿絵室」を立ち上げる事になった中心人物でもある石井鶴三が、「挿絵室」について書いている文章が出て来たので、転用させてもらおう。「挿絵室」を油絵などを飾っている上野のお山の展覧会に飾ろうとした真意が分かるものと思う。


挿絵及び挿絵室に就いて 
石井鶴三(「春陽会雑報」昭和三年第二号)

 春陽会では昨年から挿絵室を設けました。展覧会に挿絵室というのが特に設けられたのは、この会がはじめかと思います。


 挿絵というのは、本来は、新聞雑誌とかその他の書物に挿まれる絵という意味でありましょう。だから、その絵の種類には、人物画もあり、風景画もあり静物画もあり、歴史画もあり、物語画もあり、といったように種々雑多なものがあるべきはずです。では、どこに他の絵と区別するところがあるかといえば、前述の如く、新聞雑誌その他書籍の中に挿まれるという事を本来の使命とするので、必然、紙面や書物との調和が考えられたり、製版印刷による効果を条件として伴うところなどに特色をもつ事になります。


 挿絵本来の意味は右の如くでありますが、それから転じて、いまある種の絵に対して挿絵の名を以て呼ばれるようになりました。それは文学の作物等より題材を得て描かれた絵に対してであります。昔は物語絵という名で呼ばれていたものがそれであります。だから、絵物語の如きはこの挿絵の一種と見て差支えないと思うのです。展覧会の挿絵室は、性質上その出品はこの後者のものに限られるようになるでありましょう。つまり、新しい物語り絵の類であります。というのは、新聞紙上や書籍の中で見るのが本来そのところでありますから、それを展覧会で見る要はなかろうと思うからです。だが、それら挿絵の画稿類は出されてもよいとおもいます。昨年、木村君がこの種の画稿類を出されて大変おもしろかったのは、見た人の記憶に新たなところでありましょう。


 さて挿絵は、文学作物等より題材を得て描かれるものであるところから、文学の説明の如く、つまり、文学の付属物の如く考えられたり、従って、他の絵画に比べて、なにか一段低級な作物であるかの如く考えられたりされ勝ちであります。が、それは明らかにまちがいであります。


 文学から題材を得たとしても、決して、挿絵は文学の付属品ではありません。他の種類の絵画と同じく、絵画として、立派に独立した作物であります。つまり、画家の創作であります。以前私はある文学者と、文学の作物と挿絵との関係について論じたことがあります。その時私は挿絵画家と文学との関係は読み物と読者との関係を出ていないといいました。挿絵は、読者としての画家の心内に起こった画的幻想のあらわれであって、これは画家の創作であって他の何ものでもないと主張した事でした。これ等の論は委しく述べねば徹底しませんが、この与えられたせまい紙面では尽くし難いところです。春陽会の挿絵室は、今のところ、会員の作に限られていますが、一般にもこの方面からの出品があってよさそうに思います。そして、この室の出品が、もっと多趣のものとなればおもしかろうと思うのです。


 以上が、石井鶴三の春陽会「挿絵室」設立の趣意だ。この文章からは、「挿絵室」に誰がどんな作品を出品したのかは不明であるが、設立の意図は、「ある文学者と、文学の作物と挿絵との関係について論じたこと」で、「挿絵は文学の付属品ではありません」と主張し、その権利の所属をを守るためにあったものである事がわかる。