展覧会を見る人はおのずから限られているが、新聞は見る人の範囲がずっと広く、その人々の多数は僅に挿絵によって絵画を味わう機会を与えられていると云ってよいのですから、新聞の挿絵は考えようで責任の重い仕事だといえます。挿絵を馬鹿にするのは多くの民衆を馬鹿にすると同じです。だが、今日では新聞の挿絵が正当に理解されて来て大慶です。


新聞の挿絵を見て、人はこの原画が見たいと云います。小生の新聞挿絵は紙上にあらわれたものが原画です。何故というに一種の版画だからであります。肉筆は版下での作画の一過程に過ぎません。勿論重要な一過程ですがどこまでも過程です。それから製版印刷の過程を経て紙面に刷り出されてはじめて完全な画となるのです。右の次第で挿絵の画稿を一の作画資料として見られるのなら結構ですが、原画として見られることは不服です。


こんど展覧会に私はこの版下は出しません。挿絵の仕事をしている間に、新聞の挿絵ということから離れて単独に描いて見たいと思う画材に屢々ぶつかりました。かくしてできた絵を出品したのであります。絵の性質から言えば挿絵ですが実用をはなれて純粋に作画衝動によって描いたものです。