先日、石井鶴三の挿絵家デビューの話「新聞連載小説の挿絵を描いたのは、田村松魚氏の『歩んできた道』というのが最初で、大正七年やまと新聞の紙上であった。其作は田村氏の自伝的小説で、作者とは家も近く毎日のように会って話しあって居たので、大変描きよくもあり感興も多かった。」を「文学」VOL.22(岩波書店、1954年6月号)から引用して紹介した。田村松魚と鶴三の兄・石井柏亭が友達であったことから、大正7年に石井兄弟に挿絵の話が持ち込まれ、「兄柏亭と交代しながら後に名を残す新聞挿絵(田村松魚『歩んできた道』やまと新


鶴三と松魚の交友関係を調べようと、当時、田村松魚・俊子夫妻が田端に住んでいたのかどうかを、田端文士村記念館の学芸員・永井さんに連絡して調べていただいた。すると永井さんから
「……現在のところ、この二人もしくはいずれかの田端在住を確認しておりません。
田村俊子は、田端文士のひとりとして紹介している窪川鶴次郎の不倫相手として、ある程度の調査を行っておりますが、田端在住の事実はつかめておりません。ただ、大正5年末頃から松魚と別居、同7年には愛人の鈴木悦を追ってカナダ(バンクーバー)に移住しているようです。


下記の図書を知り、田村松魚の年譜も掲載されているとのことで、近隣の図書館で実見いたしました。
村松魚研究会編『高村光太郎新出書簡』(笠間書院 2006年)
http://book.asahi.com/clip/TKY200701100310.html



村松魚研究会編『高村光太郎新出書簡』(笠間書院 2006年、3,800円+税)



年譜によれば、田村松魚の住居は次のとおりです。
明治42年5月から 谷中天王寺町(大正4年にかけて町内を転居)
大正5年8月から 日暮里停車場上に美術骨董店「微笑堂」を開く
大正15年6月頃 日暮里渡辺町に転居
昭和2年2月上旬 駒込神明町に転居、日暮里にあった微笑堂を同地に移転


なお、上記図書に収録されている年月が明確な、大正5〜14年までの書簡のほとんどの宛先は「府下日暮里町十一 微笑堂」となっています。
残念ながら、田端に住んだことは確認できませんでしたが、日暮里なら田端から歩いて20分ほどですので、当時の感覚からしても行き来しやすかったものと思われます。
また、後年住んだ日暮里渡辺町と駒込神明町は、いずれも田端とは隣接というか一帯的な地域です。特に日暮里渡辺町には鶴三の兄の柏亭が住んでおり、鶴三の「つて」が推測されるところです。」


と、丁寧なご返事を頂くことが出来た。更に驚いたことに『高村光太郎新出書簡』版元の笠間書院さんから『高村光太郎新出書簡』のご恵贈を受けることが出来た。笠間書院さんありがとうございます。講演会でも利用させていただきます。掲載写真はその本を私が撮影したもの。