岩田専太郎は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に罹災し、京都に転居。大阪にあった中山太陽堂(現クラブコスメチックス)の経営する広告・出版社プラトン社が1924年(大正13年)雑誌「苦楽」を創刊することになり、編集にかかわっていた朋友・川口松太郎に呼び寄せられ専属画家となる。
岩田専太郎:画、プラトン社版「苦楽」第1巻4号(大正13年4月1日)目次
ガリバー旅行記を彷彿させる巨大な人魚の絵だ
挿絵家名は活字で起されていないが、サイン(落款)をたどって数えてみると、この号に、専太郎は12本の小説に45点の挿絵を描いている。一日1〜2点くらいづつほぼ毎日のように描き続けていたものと思われる。
専太郎は当時のことを
「編集部の一員として進行状況とにらみ合わせながら、ゆっくり筆をはこべるのだから、時間に追われるおそれはない。製版のできについても、自分で校正できるから、いくらでも文句がいえる。私のほかに『女性』担当の画家として、山名文夫、山六郎の両氏がいて、いい絵を描いていたからずいぶん参考になったのもしあわせである。まわってくる小説の原稿も、当時文壇のお歴々や若手の新人が、新しい出版社のために、新しい作品として意欲あるものを書いていたから、絵を描くにも力がはいった。永井荷風、谷崎潤一郎、里見紝氏たち大家のものに、さし絵が描けたのは、名もない当時の私として光栄だった。新人のうちには、今東光氏の名もあった。直木さんもときどき、書いたものを載せた。『心中きらら坂』は、そのころの作品だった。なにしろ、『苦楽』一冊だけに、いくつもの自分のさし絵が出るのだから、それぞれに変化をつける必要がある。小説の内容にしたがって、いろいろな絵を描く努力をしたのも、そのころである。そのため、後日、挿絵画家として立つに大いに役立った。」(「岩田専太郎」、『私の履歴書』日本経済新聞社、1983年12月)と、振り返っている。
・小川直三郎「伊右衛門夫婦─怪談小説」4点
・長田幹彦「松の葉」4点
・岡本綺堂「三浦老人昔話 置いてけ堀」4点
・岡田八千代「樽屋おせん」4点
・竹林賢七「大阪落城挿話 豪勇毛利勝永」4点
親友であり、編集者の川口松太郎は専太郎のプラトン社勤務の頃について「岩田と私は大正十二年に大阪へ行って、私は苦楽という雑誌の編集に当たり彼はその挿絵を描いた。新しい形の雑誌だったので岩田も苦心して従来の自分ではない絵を描きたいという。ちょうど自分の手許にビアズレーの挿絵画集があったので、それを示したところが、彼は即座に膝をたたいて『これだこれだ、自分の求めていたものもっこれだ、いいものを見せて貰った』と喜び、ビアズレーを和風化して新形式を作ったのが苦楽の挿絵だった。これが非常に評判になって彼は一躍挿絵界の新人にされ翌年には、大阪毎日新聞に起用されて大佛次郎の小説を担当するまでに至った。作品は「照る日曇る日」であったと思う。
これで彼の名声は定まって挿絵界の第一線に飛び出したが、当時の彼の絵は青年らしい覇気に溢れビアズレーに発した形式が迎えられて、各雑誌から引っ張り凧になり、名声は一挙に上った。私は一介の雑誌編集者にすぎないが、彼は新聞雑誌の人気者にのし上がって非常に羨ましかった記憶も鮮烈な印象で残っている。」(川口松太郎「極端に悪い奴」、アサヒグラフ、1974年)と記している。
当時、プラトン社には専太郎の他に、山六郎、山名文夫、小田富弥、小松栄、佐川珍香、橘文二、前田貢、吉田真理、和田クニ坊らが、専属又は社員として所属していた。
プラトン社専属挿絵画家は月給として給料をもらいながら、その他にも一枚描くごとに4〜5円の原稿料を受け取るという優遇された雇用状況にあった。専属であったはずの専太郎は大阪毎日新聞連載・三上於菟吉『日輪』三上於菟吉「日輪」(大正15〈1926〉年)、そして引き続き吉川英治『鳴門秘帖』(大正15〈1926〉年8月11日〜翌年10月14日)の挿絵を描いている。