やっと見つけた。第十六回春陽展の出品作の話が、匠秀夫「宮本武蔵」昭和十三年から十五年の仕事(『日本の近代美術と文学』沖積社、昭和62年)に下記のように掲載されていた。

昭和十三年から十五年は鶴三、五十二歳から五十四歳である。……「宮本武蔵」の挿絵に移る。これは十年八月からの全編に引き続くもので(前編の挿絵は矢野橋村)、おりからの日中戦争さなかのこととて、忍苦こそが人生の価値とする克己主義の哲学を物語にし、大衆に好個の続物として迎えられ、放送に映画に、演劇にとりあげられて、国民文学的性格をもつこととなった。連載中の五月頃の紙面は徐州会議の、十月頃には、同じ朝日の夕刊の連載小説に、従軍の陣中での執筆を謳って、火野葦平の「花と兵隊」が中村研一の挿絵でスタートしている。


鶴三の挿絵は「大菩薩峠」、「南国太平記」、「国定忠治」、と続いたいわばホームラン的な仕事を踏まえてのものだけに、その時代物の総仕上げ、といった趣をそなえることとなった。


連載まもない十三年四月の第十六回春陽展には、尾崎士郎「去る日来る日」(「現代」十二年一月─十三年七月号連載)への挿絵とともに、この挿絵も出品しており、前出「年鑑」(*美術研究所刊『日本美術年鑑』)の春陽会展評に次のようにある。


第六室では、木村荘八の「濹東奇譚」及び石井鶴三の「宮本武蔵」「去る日来る日」の新聞絵の原画が陳列されて好評を博した。荘八の機微に入った観察と細心の技巧は荷風の文学を伝へて遺憾なく、鶴三の定評ある挿絵と共に記憶さるべき名作であらう。叉荘八の油絵の舞台小品(「一の谷」「暫」「鏡山鳥啼」)も独自の味があり、鶴三の「城趾」(油絵)は静謐な観照に成る。
 翌十四年、挿絵界の流行画家三十余名を同人として挿絵倶楽部が結成されて、その第一回展が四月三─七日、銀座、三越で開かれているが、その展評が十五年版の「年鑑」に次のようにある。

……中で石井鶴三の「宮本武蔵」、中川一政の「石田三成」、木村荘八の「石井源蔵兄弟」等は既に新聞連載のもので、一般の挿絵家の仕事に比して格段の内容を持つもの、小村雪岱の「たけくらべ」も特質をみせた。岩田専太郎、小池巌、小川清葭の諸作も注意されたが、他は概ね普通の通俗挿絵に止まるものであった。なほ鏑木清方泉鏡花作「注文帳」の挿絵版画が賛助出品された。


とあり、出品作の一部を知ることが出来た。