「中川一政挿画展─石井鶴三・木村荘八とともに─」に春陽会「挿画室」の話が出ていたので、引用させてもらう。

一九二二(大正十一)年に山本鼎、足立源一郎、長谷川昇小杉未醒、倉田白羊、森田恒友梅原龍三郎、の七人が発起人になって春陽会は設立された。中川一政、は、石井鶴三、草土社同人の木村荘八岸田劉生らとともに客員として参加している。二科会に次ぐ美術の在野団体となった。春陽会には東洋的趣味を素朴に表現したいという共通性があったが、その方向は、一九二七の第五回の展覧会場に設けられた挿画室に端的に現れている。これは他の団体には見られない特徴と言ってもよい。それは会員達に山本鼎など創作版画運動と深く関わってきた画家や、「方寸」の元同人の小杉未醒、「白樺派」などの文学界と接触のあった草土社の画家がいたからである。



春陽会創設メンバー


 マスコミなどの挿画重視の方向により、春陽会には制作依頼の仕事が相次ぐ。こうして一九二〇年代から三〇年代にかけて、春陽会を中心に挿画は隆盛の時代を迎えることになる。中川一政もその挿画の隆盛に重要な役割を果たす。彼の挿画の最初の仕事は片岡鉄兵著「いける人形」(一九二八年、朝日新聞連載)である。この挿画への初挑戦は気になるものであったらしく、連載された新聞を切り抜いてスクラップに貼りつけて克明に感想を記したというエピソードが残っている。女を描くことが苦手だった中川一政に、木村荘八がモデル人形を貸したこともあるという。


すでに挿画の仕事に関しては、先輩であった木村荘八や石井鶴三から、その心構えをはからずとも学ぶことになった。挿画に対する姿勢は、何ら油絵に取り組む姿勢と変わらず、彼の代表作となる「人生劇場」、「石田三成」の挿画として実を結ぶことになる。



中川一政:挿画、「人生劇場」



中川一政:挿画、「石田三成


「人生劇場」は尾崎士郎の原作で都新聞に一九三三年から四三年まで連載された。青春篇、愛欲篇、残侠篇、風雲篇、離愁篇、夢幻篇、望郷篇の七篇からなり、原作者の尾崎士郎の分身とも言える青成瓢吉を主人公に吉良常、飛車角、黒馬先生といった個性的な人間達をからませ、彼の半生を辿った作品である。当時文化部のデスクの上泉秀信は、部員の飛田角一郎と相談した結果、内容に最もふさわしい描き手として中川一政に白刃の矢を立てたのである。


……戦後になって、油絵を再び描くようになってから、段々と挿画の仕事をことわるようになる。目立つのは、前述した「天皇の世紀」くらいである。やはり、自分は油彩画家であるという気持ちが強かったのだろう。しかし挿画史上に残した業績は消えることはない。