春陽会の芸術家達がなぜ、春陽展の会場に挿絵を展示したのか? さらには挿絵画家の団体「挿絵倶楽部」を起ち上げようとしたのか、木村荘八「時代のいろ」(『近代挿絵考』双雅房、昭和18年)にその答えが書かれていた。長文になるが以下に引用してみよう。(旧漢字は新漢字に変換した。)


挿絵は広く逸早く万人の眼に触れるものであるから、新体制影響は直接のものである。一つから言えば、新聞雑誌によらず挿絵とある以上は、それが或る小説なら小説の挿絵であると同時に、また昭和×年×月×日の新聞面に載っているその絵は、言わず語らずその×年×月×日風なる時勢相の一つの姿である。現に新体制の声あって以来、挿絵に、その以前の自由主義風な或いはきらびやかなものは、どの紙面にも一つも見られないではないか。


 ──我々はかねて挿絵倶楽部というものを持っていた。その一団としての目立つ活動はしなかったが、これはそれをする事情に出逢わなかったので、目立って動かなかっただけのことで、挿絵をやるもの相互の間にこの連絡機関の存立はいうまでもなく必要だった。必要があったればこそ目立つ活動はなかったにも拘わらず、倶楽部は存続していたわけで、これは、相互間の親睦をはかることにも存在意識の一つであったが、それよりも挿絵の著作権を守る、何かそういったようの法的の場合に、お互いの楯となりる。この存在理由の濃いものであった。


 今から数えるとだいぶ以前になるが、昭和になったかならないかの頃、勿論その頃は右の倶楽部は結ばれなかった時代。我々は黒白会という会合を結び『黒白』という雑誌を出したことがある。──思えばこれが、後の挿絵倶楽部の萌芽であった。黒白の時分には一向法的意識等はなく、世の中もまたのんびりしたもので、我々のその会合は飲食会談の閑談会だった。そしてこの会は永続しなかった。

 
 そのうちに時が経って、石井鶴三の『大菩薩峠』挿絵の著作権風な係争があって、この辺をきっかけに、前に述べた挿絵倶楽部が結成されたのである。これは既に閑話会ではなく、名は倶楽部とあるけれども実は、お互いの城砦のつもりであった。


我々の間に前の柔らかな黒白から転じて堅い倶楽部が結ばれたというこの事情の陰に、歴然と時代の推移が見える。そして、今度それが発展的解消をして、現在の挿絵画家協会となり、新体制の構えに我々はこれをもって応じようということになった。


形式は前のままの倶楽部でもよかったかもしれないけれども、精勤の示唆などもありかたがた、向後の規模を大きくする見込みで、新しく協会組織にしたわけで、倶楽部のころには、本意として自由に来者不拒去者不追の建前でいてそれでよかったのが、協会はひろく積極的に呼びかけることにした。


倶楽部は大体、常に挿絵に出動する画人をもって組織したものであるが、協会は、たまに挿絵に出動する作家でもおよそ挿絵にゆかりのある人々は、参加して貰うことにした。些少とも我々の挿絵のものの集まりが精勤──国家機関──と関係を持ったということも大きな時代のいろであろう。おそらく倶楽部のころには、この存在は国家機関とは相当距離のあるものだった。