石井鶴三たちが昭和14年に起ち上げた「挿絵倶楽部」に関する記事が、「本の手帳」同人の喜夛さんから送られてきた。小さな記事で、次のように記されている。

「挿絵倶楽部展
△…結成第一回展として先ず人的内容の貧弱さと生のままの挿絵とは全く趣を異にしているものの多いことが遺憾である
△…一般の観賞に供するためには石井鶴三が僅かに色彩を補足している程度にすぎない
△…出来栄えとしては石井鶴三、中川一政が試みている手法が髷物には適しているが、一政の「石田三成」に示した淡墨のぼかしは版となった場合あの調子は出ない
△…克明な線描による野村俊彦のエッチング三芳悌吉の「夏の夜の兵営」がよく、明石精一の「母のかたき」も亦黒白を以てしても効果的である、その他鏑木清方小村雪岱の小品もある(龍)(七日まで銀座三越)」(東京朝日新聞昭和14年



「東京朝日新聞昭和14年4月7日
下のほうに小さく掲載されている。記事を書いた(龍)って誰だろうか? 結構厳しい意見だが、的を得ているとも思えない。
「人的内容の貧弱さ」とは、当時の挿絵界の陣容を理解できていないだけではなく、恐らくは本絵の画家たちの団体と比較しているのではないかと思われることだ。ここに記されているだけでも十分にすごいキャスティングだと思われるが。


「色彩を補足している程度にすぎない」とは、色が付いていないと観賞に具する絵としては不適切なのだろうか。新聞や雑誌の小説挿絵ということを考えると、当時としては白黒の挿絵が並んでいるのが当たり前であろう。


「一政の「石田三成」に示した淡墨のぼかしは版となった場合あの調子は出ない」とは下記のような場合をさしているものと思われるが、印刷仕上がりを考えて原画を描いていた石井鶴三も「大菩薩峠」や「東京」ではコンテを使っているがグラデーションを使っている。決して再現不可能な表現法ではない。



中川一政:画、「石田三成



石井鶴三:画、(「東京 愛欲篇」東京朝日新聞、大正10年)



石井鶴三:画、「大菩薩峠 犬と遊ぶ」(大正15年)


記事を執筆した(龍)が、仮に川端龍子であったら、これは少し面白い話になりそうなのだが、何とか、追及してみたい。
と言うのは、「大正13年に始まる白井喬二の大河小説『富士に立つ影』(昭和2年まで報知新聞に連載)の挿絵は春陽会に属した木村荘八、河野通勢、山本鼎に、初め洋画を学んだ川端龍子(当時は日本美術院に属して日本画家になっていた)が、各、6〜7回ぶんずつ、リレー式に受け持ったのだが、(山本は一度のみ)鶴三が開いた突破口を更に切り開いた点で大きな意義を持つのである。
龍子は早くから、新聞、雑誌にコマ絵を描いていた体験からの余裕からか、挿絵を第二義的な仕事として軽視したのか、才気にまかせたやっつけ的な描き流しが多かったけれども、荘八以下の洋画家は初めての仕事というカタサはあったにしても、特に荘八と通勢にとっては、後に定評を得ることになる挿絵家としてのスタートになった記念的な仕事であった。」(匠秀夫『近代日本の美術と文学』木耳社)


翌年、大正14年中里介山大菩薩峠』の後編が東京日日、大阪毎日新聞に連載された際の鶴三の挿絵が決定打になって、このころから、帝展、二科会、春陽会の洋画家が続々新聞挿絵に登場してくることになった。

田中良:挿絵、谷崎潤一郎『知人の愛』(大正13年大阪朝日新聞連載)の挿絵もこうした新局面を示す一例であり、田中良は明治43年藤田嗣治岡本一平などと東京美術学校西洋画科を卒業し、帝国劇場背景部に勤めて、舞台装置を研究しながら、文展、帝展に出品した画家である。



田中良:挿絵、谷崎潤一郎痴人の愛」(「大阪朝日新聞大正13年


しかし、
「谷崎は主人公ナオミの顔立ちを『活動写真女優のメリー・ピックフォードに似たところがあって、確かに西洋人じみていました。』としているが、これをうけた田中のナオミ像は、当時、人気絶頂、最盛期にあった竹久夢二流の甘味、繊弱、溺々とした美少女になっており、ナオミの野性味を潜めた不良少女的なふてぶてしさはすっかり消えてしまっている。コンテやペンで描かれたこの新しい挿絵は、テキスト解釈の浅さから、優れたものとは云えないにしても、時代の美人画における夢二の影響力の大きさを示す好例になっている。」(前掲書『近代日本の美術と文学』)と、挿絵を描くのは挿絵家の独りよがりは許されず簡単なものではなく、その批評となるとさらに教養が求められ(龍)の「挿絵倶楽部展」の視点の貧困さがわかるというもの。


それにしても「挿絵倶楽部展」の全出品作を見てみたいものだ。