「〈縞の合羽に三度笠〉という所謂『股旅もの』のスタイルを創出し、一般に定着させたのは、長谷川伸と子母沢寛の功績であり、戦前は股旅もの全盛時代であった。小説に映画に舞台にと『股旅もの』は盛んに書かれ上映演され、一連の流行歌も全国を風靡したことも、その隆盛に拍車をかけたのであった。時代小説の分野の中においても、『股旅もの』はひとつの大きな主題を為すことになり、長谷川・子母沢両先覚者のあとを追って、他の作家たちの手によっても、数多く股旅小説は書かれてきたのである。」


「それほどに隆盛だった。『股旅もの』も、昭和二十年を境にして、米占領軍総司令部の命令で一時姿を消すことになった。これは『股旅もの』だけに限らず、時代小説全般が封建思想を醸成するものとして、又、刀剣を用いて人を切るということなどがもっての外といったような凡そナンセンスな理由で禁止になり、二十年代末頃には、再び時代小説は復活し従来に勝る一般的人気をも獲得するほどになった。そうした時代小説・歴史小説の復活再来はあったものの、不思議なことに『股旅もの』だけは、どうしたわけか依然として忘れられていた。股旅小説は書かれなかったのである。」


「股旅小説に対する一般大衆の切望が勃然と高まってきた頃、昭和四十六年(1971)三月、『赦免花は散った』を第一作として、颯爽と登場してきたのが、笹沢佐保の『木枯し紋次郎股旅シリーズ』であった。その物語性の豊かさと斬新さを以て忽ち股旅ブームの到来となったことは、まだわれわれの記憶に新しいところである。」



岩田専太郎:画、笹沢佐保・原作「木枯し紋次郎」ポスター(1972年東映制作の映画。主演は菅原文太


私は、1977年に東京12チャンネルで放映された中村敦夫主演の『新・木枯し紋次郎』(全26話)を見た。上條恒彦が歌った主題歌『だれかが風の中で』も大ヒットした。紋次郎が口にする「あっしには関わりのねぇこって」や「上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた紋次郎は、生まれてすぐに間引きされそうになる所を姉おみつの機転に助けられた。」というようなナレーションも流行った。


「つねに長い爪楊枝を口にくわえ、ニヒルな風貌を漂わす渡世人木枯し紋次郎の股旅姿は挿絵を担当した岩田専太郎の名画により、みごとなまでの躍動ぶりを示したのである。『木枯し紋次郎』ブームの原因となった一つには、確かにこの岩田専太郎の名挿絵を得たことにあることは、間違いのないところと思われる。」(『岩田専太郎さしえ画集』毎日新聞社、昭和51年)と、挿絵画家・岩田専太郎が紋次郎ブームの火付け役の一人でもあった。


専太郎の筆で視覚化されたキャラクターによって一躍人気を得た紋次郎は、その後、専太郎の手から堂昌一、成瀬数富にうつり40年経過した今でも継続して発売されている。



堂昌一:画、笹沢佐保「帰ってきた木枯し紋次郎」(新潮文庫、平成9年)



成瀬数富:画、笹沢佐保木枯し紋次郎 赦免花は散った」(富士見書房、昭和56年)