単行本には連載時の書誌データ記載がなく、岩田専太郎がいつまで「日暮妖之介」のさし絵を描いていたのかは、今のところ不明だ。「堂昌一さし絵画集」(ノーベル書房、平成4年)にも、堂昌一が描いた「日暮妖之介」のさし絵が挿入されているが、こちらもさし絵のキャプションの日付は「1972」年とあるだけで、詳しい掲載月日は記されていない。ぜひとも編集者は、雑誌や新聞に連載されたものを単行本にまとめる時は、連載時のデータを記すように心がけて欲しい。


専太郎が他界した昭和49年2月に抱えていた絶筆となった連載もの、「小説サンデー毎日」に連載の山岡荘八徳川家光」は4月号まで掲載、「週刊文春」に連載中の松本清張西海道談綺」は3月号まで掲載され、そのあとを堂昌一が引き継いで描いた。


そのことについて堂昌一は「昭和四十六年から『週刊文春』に連載中の『西海道談綺』のさしえのつづきを、岩田先生の代わりに描くようになって、昭和五十一年の五月六日でそれが終るまで、仕事をさせていただいたことは、身に余る光栄と、とても感謝しています。


岩田先生を、わたしはものすごく尊敬していたので、年始の挨拶にうかがっても、やたら恐縮するばかりで、ろくに口もきけないありさまでした。『弟子にしてください』と一言も云っていませんでしたが、自分自身で、勝手に弟子のつもりでいました。先生は、この不肖の弟子には、きっと迷惑に思われたこともあるかと思いますが、ときどき月刊誌に連載中のさしえのピンチヒッターを、直接お電話で頼まれるようになったので、弟子と認めてくれたのかと、嬉しく思ったものです。


……『西海道談綺』のさしえの代役をするに当たって、私にはもちろん、岩田先生に代わるような腕も力もないので、原稿をよく読んで、時間の許す限り、丁寧に、リアルに描き込むこと、それよりほかに、よい方法が見出せませんでした。」(堂昌一「岩田先生の代役」、『松本清張全集月報12』文藝春秋、昭和58年)と、『西海道談綺』の後を継いだことを記している。


徳川家光」や「西海道談綺」のほかにも、岩田の後を継いで描いたものがあるのではないかと思い調べ始めていたら、今回の「日暮妖之介」のさし絵に出合った。今回は二人の画集に同じテーマのさし絵が記載されていたので探すことが出来た。こうしてここに、岩田専太郎描く「日暮妖之介」と、堂昌一画描く「日暮妖之介」の師弟競作を見ることが出来ることになった。ひとつのテーマで複数のさし絵画家が競作するようなことは稀なことで、こんなチャンスはめったにない。


堂昌一:画、「日暮妖之介」(「週刊小説」昭和47年?)



堂昌一:画、「日暮妖之介」(「週刊小説」昭和47年?)



堂昌一:画、「日暮妖之介」(「週刊小説」昭和47年?)



堂昌一:画、「日暮妖之介」(「週刊小説」昭和47年?)



堂昌一:画、「日暮妖之介」(「週刊小説」昭和47年?)


この挿絵家の入れ替えに気がついた読者はどのくらいいただろうか? サインも専太郎は「SEN」と書き、堂は「SHO」とおなじ「S」ではじまるのを利用して、専太郎のサインとよく似たサインを使っている。こうして専太郎から昌一へのバトンタッチはつつがなく行われたようだ。