「長谷川伸の仕事は昭和十一年から二年へかけての『荒木又右衛門』によって、大きく前期と後期にわけることができる。前期の作品には股旅ものに代表されるような義理人情を描いたものが少くなく、とくに『一本刀土俵入』『沓掛時次郎』『瞼の母』などの戯曲は長谷川伸の名を不朽のものとした。

 実際に『股旅もの』の名称が普及するのは、昭和四年三月に『改造』誌上に発表した『股旅草鞋』からで、長谷川伸が『股旅もの』の開祖とみられるのも当然なことであろう。」


「しかし、彼はけっして封建的なモラルである義理人情を称揚したわけではなかった。『股旅者も、武士も、町人も、姿は違え、同じ血の打っている人間であることに変わりはない。政治家の出来事も、行商人の生活も、これに草鞋を履かせ、腰に一本長脇差を差せれば、股旅物にはなるのである。』この長谷川伸の言葉ほどその心情を率直にしめしたものはない、股旅ものも姿こそ違え、同じ血の通っている人間だという一句は長谷川伸の股旅ものの精神的な位置を明確にものがたる。」


「やくざものや巾着切、コソ泥などがその渡世から抜け出すことができず、義理や人情のしがらみにからまれて苦労する姿にあたたかい共感の目をそそいできたかれは、法の外におかれている人々にたいして、いつの場合にも同行の二人の意識をもち続けたさっかだった。」



「それは長谷川伸その人の暗い半生の体験からもきている。自伝的作品『新コ半代記』をみてもわかるように、彼は四歳の時に母親と生別し、小学校の中退後、台屋のはこびをはじめ、横浜ドックの現場小僧、かんかん虫、鳶のてもと、土方、石工など、さまざまな職業を体験した後、新聞記者となり、雑報記者をへて作家となった人だ。その屈折の多い半生の体験が下積みに生きた人への共感となってあらわれ、すぐれた一連の股旅ものを創造させたのだった。」(尾崎秀樹「解説」、カラー版国民の文学4
長谷川伸河出書房新社、昭和44年)



岩田専太郎:画、長谷川伸瞼の母」(「騒人」昭和2年