「瞼の母」は、長谷川伸自らの境遇に重ねて書いた

もの
「主人公の忠太郎は、五歳の時に実母と別れ、思いでの中に生きる母の像を瞼のうちに描きながら、やくざ渡世の深間に陥ちこんでゆく。賭博なかまに加わるようになったのも、母を思慕するこころを抑えきれず、その感情をまぎらすためだったといえる。この忠太郎の環境設定も、作者その人の体験から割り出されたもので、彼は四つのとき母と生別し父や兄とも早く死にわかれ、母の名前さえロクに知らず、わずかに東海道の戸塚あたりの生まれだという記憶だけをたよりに、再会の願いを懐きつづけた。」


「さいわい長谷川伸は四十七年目に、三谷家にとついだ母と再会することができるのだが、『顔も知らねえ母親に、縁があってめぐりあって、ゆたかに暮らしていればいいが、もしひょっと貧乏に苦しんででもいるのだったら……』と百両づつみをつねに用意する『瞼の母』の忠太郎同様、いつもそのこころづもりでいたという話だ。」(尾崎秀樹『カラー版国民の文学4長谷川伸』解説)


「『瞼の母』は、……昭和六年三月の明治座で、先代守田勘弥、現尾上多賀之丞などで上演されてから、これも上演度数の多いことでは『一本刀』『沓掛時次郎』『暗闇の丑松』などと同様だが、昭和八年、著者が五十年ぶりに母堂とめぐり会われてから、作者の意志でこの作の上演は禁止された。しかし、母堂の逝去後、禁止は解かれ、今もくり返して上演されている。」(村上元三「荒木又右衛門ほか」、『カラー版国民文学』月報第二十五回配本)