「ある日、文藝春秋社の雑誌『オール読物』の編集長、香西昇君が、たずねてきた。玄関で、彼の気の毒そうな顔色をみただけで、何もきかないうちに、その用向きがわかった。まっ正直な香西君なのである。『オール読物』の表紙の仕事は、私が、かなり力をいれて描いていたものだった。が、それを、他の人に替えるというのが、訪問の目的だった。」(『わが半生の記』)


「実はさし絵の仕事を、よそうかと思ったこともあった。……『蛇姫様』その他、華麗な絵を描いて、ものの役に立たない絵かきのごとく扱われた口惜しさに、無理とはしりつつも兵隊の絵を描いて、戦争末期の昭和二十年には、陸軍報道部の命令で、『神風特攻隊吉出発』の絵を描いている。平然として死地におもむく、青年たちの群像をである。戦争することの是非はともかく、あの青年たちの姿には胸を打たれずにはいられなかった。それが、戦争が終ると、またもとのような華麗な絵を描け、との注文である。どうすればいいのだ! とおもった。」(『わが半生の記』)



岩田専太郎:画、「浙東作戦」(『靖国之絵巻』昭和16年10月)



岩田専太郎:画、「特攻隊内地基地を発信す(二)」(東京国立近代美術館蔵、昭和20年)