岩田専太郎は1919 年(大正8年)12月、父親の友人・吉田六に勧められ「講談雑誌」を発行していた博文館・生田調介を訪ね、挿絵画家として採用される。1920年(大正9年)19歳の時に「講談雑誌」3月号に掲載された一竜斎貞山「音羽屋火事」と齊藤金鴬「床下小函」で挿絵画家としてデビュー。



岩田専太郎:画、一竜斎貞山「音羽屋火事」(「講談雑誌」3月号、1920大正9年


1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に罹災し、京都に転居、大阪にあった中山太陽堂(現クラブコスメチックス)の経営する広告・出版社プラトン社が雑誌「苦楽」を創刊することになり、編集にかかわっていた川口松太郎に呼び寄せられ専属画家となる。


1924(大正13)年創刊の『苦楽』(直木三十五川口松太郎ら編集)では、岡本綺堂「三浦老人昔ばなし」や直木三十五伊達騒動原田甲斐の苦喪」、東健而「ワイフが欲しい」などの連載小説の挿絵を描く。


「苦楽」第12号5巻(プラトン社、大正15年12月)には、専太郎が挿絵を担当した須藤鐘一「三万円の宝石」、白柳秀湖宮本武蔵と烏猫」、長谷川清「新説斧定九郎」、里見紝「今年竹」の4本が掲載されている。



岩田専太郎:画、須藤鐘一「三万円の宝石」(「苦楽」大正15年12月)



岩田専太郎:画、白柳秀湖宮本武蔵と烏猫」(「苦楽」大正15年12月)




岩田専太郎:画、長谷川清「新説斧定九郎」(「苦楽」大正15年12月)



岩田専太郎:画、里見紝「今年竹」(「苦楽」大正15年12月)