2010-06-09から1日間の記事一覧

余談だが、齊藤金鴬「床下小函」について調べようとして、Googleで検索をしてみたら、執筆途中で保存したらこの頁が数分と経たないうちにトップ画面の一番最初に掲載されていた。Googleのデータ蒐集力の威力をまざまざと見せつけられた思いだ。おそるべし。

親友であり、編集者の川口松太郎は専太郎のプラトン社勤務の頃について「岩田と私は大正十二年に大阪へ行って、私は苦楽という雑誌の編集に当たり彼はその挿絵を描いた。新しい形の雑誌だったので岩田も苦心して従来の自分ではない絵を描きたいという。ちょうど自分の手許にビアズレーの挿絵画集があったので、それを示したところが、彼は即座に膝をたたいて『これだこれだ、自分の求めていたものもっこれだ、いいものを見せて貰った』と喜び、ビアズレーを和風化して新形式を作ったのが苦楽の挿絵だった。これが非常に評判になって彼は一躍挿絵界の

これで彼の名声は定まって挿絵界の第一線に飛び出したが、当時の彼の絵は青年らしい覇気に溢れビアズレーに発した形式が迎えられて、各雑誌から引っ張り凧になり、名声は一挙に上った。私は一介の雑誌編集者にすぎないが、彼は新聞雑誌の人気者にのし上がっ…

岩田専太郎は1919 年(大正8年)12月、父親の友人・吉田六に勧められ「講談雑誌」を発行していた博文館・生田調介を訪ね、挿絵画家として採用される。1920年(大正9年)19歳の時に「講談雑誌」3月号に掲載された一竜斎貞山「音羽屋火事」と齊藤金鴬「床下小函」で挿絵画家としてデビュー。

岩田専太郎:画、一竜斎貞山「音羽屋火事」(「講談雑誌」3月号、1920大正9年) 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に罹災し、京都に転居、大阪にあった中山太陽堂(現クラブコスメチックス)の経営する広告・出版社プラトン社が雑誌「苦楽」を創刊するこ…

続いて大正15年(1926年8月)作家デビュー間もない吉川英治を一躍大人気作家に押し上げた時代小説「鳴門秘帖」(大阪毎日新聞連載)の挿絵を担当。ビアズレー風のタッチで話題になり、「モダン浮世絵」とよばれ評判を呼んだ。

ペンを使った繊細な絵というだけではなく、大胆な構成やコラージュという貼り合せの技法を採り入れたり、と、前衛美術運動にも連動した斬新な様式を採り入れている。 岩田専太郎:画、吉川英治「鳴門秘帖」(大阪毎日新聞、大正15年〜) 9月には東京に戻り、…

専太郎は、三上於菟吉『日輪』(大阪毎日新聞、1926年1月)で初めて新聞小説の挿絵を描く。専太郎は、自らが楽しんでいるかのように、次々に新しいタッチの画風を展開してみせる。

そんな専太郎を川口松太郎は「多忙になると長い時間をかけて仕事をすることが出来ず、岩田式定型に安住して作風が硬化して行くのも已むを得なかった。そんな時に『絵がマンネリになりかけているぞ』と警告するのも私で、彼も素直に頷き『少し忙しすぎたんだ…