同じ頁に記載されている、宮本幹也「挿絵という名画」も紹介しよう。挿絵の方が小説より勝る例を「挿絵」ならぬ「挿小説」として提示しているのが面白い。


宮本幹也「挿絵という名画」(「さしゑ」創刊号、昭和30年)


「自分の小説にはさもあればあれ、正直に言つて小説家は先ず小説を先に読むだろうと思う。ということは必ずしも小説が主で絵が従だと言うことにはならない。だが、率直に言つて、絵から先に見る程の挿絵は当今あんまりお目にぶら下がらないことも確だ。併し、僕の記憶では子母沢寛氏の国定忠次ではなかろうか。と言うことは、絵が主で、挿小説と言う風なもので、小説の方が女房役になると言った風な現象がこれからもあり得ると言うことを示すものだ。


 と言つたからとて必ずしも今の挿小説家諸氏がその挿小説を僕らに描かせる程の大才を持つているのだと言うことにはならないが──兎に角、僕の言いたいことは大才を持った挿絵画家が出て欲しいと言うことだ。絵葉書のように美しく、写真師の如く忠実なる御見事な挿絵はもう沢山だ。誰もが真似が出来なくて、アクが強くて、作家の方で思わず挿絵に引きづられるという風な画家が出て来ないか? 


もうそうなったら完全に絵画である。たとえば小説であつても文学ではないものがあるのと同様に、挿絵であつても絵画ではないものがどうも多過ぎるようだ。などと大きな事を言うのも、小説ではあっても文学ではない物を書いている我と我が身に対する激励の辞であるに外ならない。呵々。」