良い挿絵を求めるには

 良い絵、悪るい絵、上手、下手、時間を掛ける絵、早くできる絵、これ等への報酬が、開きはあろうが、ホンの僅かの差の、ミソもクソも一緒くたの均一扱い、骨折る奴はバカみたいになり、これが良心的な仕事を阻むこと尠なからず、とおもいます。


そんなことにお関いなく、敢然と良心的である人も、ホンの少しはあるにはある。これ等のことも、挿絵を採用する側では承知し、区別をせねばいけません。イヤ、皆んな百も承知難だろうが、報ゆる点でトボケて了うのが殆どでしょう。良い絵が多く出来ぬ所以です。罪は画家よりも、採用側に出発があるように思う。

 与えられた僅かな時間で執筆を急がれる。資料を調べる時間の余裕がない。時には、原稿を見せられずに、局限された内容とスペースによる絵型なるものによりて、ハメ絵の如きを画くことあり。これは画家の一番弱ることなり。読者はこれを知らず。画家を責める。辛らいところです。


挿絵などは誰でもよし、何うでもよし、といつたような雑誌もあり。中間誌では、拙ずい絵でなければ採用しないのではなかろうか、と錯覚を起させるような挿絵多し。展覧会画家の挿絵を珍重して、専門挿絵画家の絵を軽んずる傾向なしとせず。千文挿絵画家の絵に、低俗なものあるも、一部認めないわけにいかぬが、ジックリと挿絵に取組んだ仕事の故に却つてボロを見せることもあり。


展覧会屋の方は、巧みに(或いは稗怯に)取組まず、逃げ手でゴマかした風のもの多し(中には良い絵を画く人もあるが)、全然挿絵にも、絵にも成つていないだけに、却つて批判の手を付けようんくて問題外となり、アレヨアレヨといううちに、何時の間にか一家の風格とやらを、見る方で勝手に拵えて了つたようなのがウヨウヨあり。盲千人とはこのことを言うべきか。


 作家に比して、挿絵画家への待遇の、余にも片手落ちなること。これは採用側でも、常に明言して居乍ら、画家の弱気と沈黙に冠せて放置しあることなり。


 紙面掲載の上では、一流新聞は、作家画家を同列に同活字で表している。このことは私は有難いと思う。が、雑誌では画家を小活字に組んで居り、目次では省いているのもある。これについては、私にの或るファンから文句を言つて来て居るのもあります。


報われる点については、六興出版の挿絵全集の付録誌で、石坂洋次郎氏が挿画家の立場に同情ある一文を寄せて居られる。こういう言は、解つていても余程正直と善意がなければ言つて貰えないことです。私は感激した。


 挿絵画家の報酬は、作家に比して問題にならぬ程の軽酬だが、仕事あれば若い人でも一応の生活は維持し得ると思う。これが却つて金銭を意に介する傾向を生じ、ついつい小商人的、俗職人的になり、仕事が質よりも量に動き易く、勉強が疎かになり兼ねぬオソレがある、と思います。


 展覧会画家(大家は別)の、貧乏に堪えて勉強する態度を、挿絵画家も参考にしていいと思う。
 以前に盛んに挿絵を画かれた、小杉放庵先生(面識はないが私の尊敬する画家)は挿絵について『今の挿絵は逃げ手が多いが、国定あたりの絵本の仕事振りを賞し、これを採用する側は、その報酬を潤沢にし、これを採用する側は、その報酬を潤沢にし、画く方は渾身これに当たりて良絵を作るように」という意味のことを画(まま)いて居られる。画かせる側も、画く側も、この量見と覚悟を以つて、更に時間の余裕を用意されなば(まだこの外に、製版、印刷、用紙等の条件もあれど)自ら良い絵は生まれることならん。乞われるままに、柄にもなき挿絵一兵卒の愚見、お笑いありたし。」


と、挿絵画家を取り巻く、様々な条件に対する不平不満をぶつけるような文章だが、確かに充分な時間と、潤沢な報酬があればこそいい絵は生まれるものかもしれない。