親友であり、編集者の川口松太郎は専太郎のプラトン社勤務の頃について「岩田と私は大正十二年に大阪へ行って、私は苦楽という雑誌の編集に当たり彼はその挿絵を描いた。新しい形の雑誌だったので岩田も苦心して従来の自分ではない絵を描きたいという。ちょうど自分の手許にビアズレーの挿絵画集があったので、それを示したところが、彼は即座に膝をたたいて『これだこれだ、自分の求めていたものもっこれだ、いいものを見せて貰った』と喜び、ビアズレーを和風化して新形式を作ったのが苦楽の挿絵だった。これが非常に評判になって彼は一躍挿絵界の


これで彼の名声は定まって挿絵界の第一線に飛び出したが、当時の彼の絵は青年らしい覇気に溢れビアズレーに発した形式が迎えられて、各雑誌から引っ張り凧になり、名声は一挙に上った。私は一介の雑誌編集者にすぎないが、彼は新聞雑誌の人気者にのし上がって非常に羨ましかった記憶も鮮烈な印象で残っている。」(川口松太郎「極端に悪い奴」、アサヒグラフ、1974年)と記している。