明治初期の日本のボール紙(板紙)生産状況については、青木栄之助『東京板紙と佐久間貞一』(千住製紙、昭和三十四年)に、「(佐久間貞一は)明治九年十月京橋区西紺屋町に高橋活版所と云うのが売物に出ていたのを譲り受けて、秀英舎と云う小さい看板を掲げて開業した。その時の資金は僅かに千円、それも友人・保田久成から借入れたものであった。しかし当時は未だ何と云っても政府の印刷局を除いては活版印刷は一般にはあまり知られて居らず、仕事は閑散で経営には頗る苦労した。偶々中村正直がその著書『西国立志編』を従来の木版印刷を止めて活


……その時、中村正直から製本を洋式装釘(*そうてい)とするように依頼されたが、その頃我が国には洋式装釘の方法を知るものもなく、第一その表紙に使用する板紙は、舶来品が僅かに市場に存するばかりで、その抄造の方法に至っては皆目見当もつかない有様であった。貞一は何んとかして中村先生の希望に応じて板紙をつくり出そうと決心したが、何分、製紙にも機械にも全然の素人であり、科学的教育を受けていない彼のことであるから、その困難たるや察するに余りがある。


彼は英国版百科全書を頼りに研究に研究を重ね、百方苦心の結果麦桿を以って舶来品に類似する品質のものを漉き上げることに成功した。大いに喜んだ彼は、直ちにこれを中村先生に報告するとともに、友人久貝正路・齋藤盛太郎両氏と相談して、牛込岩戸町の久貝邸内に試験的に小工場を設け、自ら考案した手漉器具を作り、二三人の工員を雇入れて製造に着手し、明治十年には第一回内国博覧会に其の製品を出品して鳳紋賞牌を受けた。これが我が国に於ける板紙製造の始まりである。」と、記されている。輸入品に頼るしかなかった明治十年に、初めて生産に成功した国産ボール紙製造の端緒について『改正西国立志編』の製作が契機になった、と記している。