「虞美人草(ぐびじんそう)」は夏目漱石が明治40年東京帝国大学を辞職、朝日新聞に入社し職業作家として書いた第一作。名取春仙も漱石と同年に東京朝日新聞社に入社し、夏目漱石(そうせき)の「虞美人草」の題字飾りカットをえがく。6月23日より10月29日まで連載された「虞美人草」にさし絵はなく、橋口五葉、春仙が東京朝日新聞で、野田九甫、赤松麟作が大阪朝日新聞でそれぞれ20種ほどを描いて、小説の展開にしたがって数回ごとに変えて使われた。東京朝日新聞16番目の鷹の像のカットには”NATO-RI”のサインが記されている



東京朝日新聞に掲載された夏目漱石虞美人草」題字飾りカット(明治40年6月〜10月)



東京朝日新聞に掲載された夏目漱石虞美人草」題字飾りカット(東京・大阪朝日新聞明治40年




東京朝日新聞に掲載された夏目漱石虞美人草」題字飾りカット(東京・大阪朝日新聞明治40年6月〜10月)



東京朝日新聞に掲載された夏目漱石虞美人草」題字飾りカット(東京・大阪朝日新聞明治40年



大阪朝日新聞に掲載された「虞美人草」の題字飾り


東京朝日新聞に「虞美人草」と同時に連載された絵入り小説は、6月25日〜9月5日まで仰天子「湯島近辺」が、9月6日〜12月12日まで半井桃水「天狗回状」が右田年英の挿絵で掲載されていた。



右田年英:挿絵、半井桃水「天狗回状」(東京朝日新聞明治40年9月6日付け)


 大阪朝日新聞では第4面に渡辺霞亭「長恨歌」を赤松麟作の挿絵で、第8面に同じ渡辺霞亭(作者名は緑園生)「大石内蔵助」を幡恒春の挿絵で掲載している。


夏目漱石「こころ」(東京・大阪朝日新聞大正3年4月20日〜8月11日)もさし絵なしで、第1回は6面第1-2段に連載が始まり110回にわたり掲載された。この時、同紙の7面1-3段にはすでに大正2年8月29日から半井桃水大石内蔵助」の中央にさし絵を掲載した連載が始まっており、大正4年4月21日まで600回続いた。



名取春仙:画、夏目漱石「こころ」(東京・大阪朝日新聞大正3年4月20日〜8月11日)題字飾りカット



名取春仙:画、夏目漱石「こころ」(東京・大阪朝日新聞大正3年4月20日〜8月11日)掲載紙面(一番上2段)


漱石作品の「虞美人草」以後の10年間の装画(題字飾り)だけの作品と、挿絵が入った作品を調べてみると、標題の文字だけまたは装画だけの作品は「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「心」「道草」。挿絵が添えられた作品は野田九甫:挿絵「坑夫」、春仙:挿絵「三四郎」、春仙:挿絵「明暗」の三作品だけである。


九甫が挿絵を担当した「坑夫」(連載96回)は、漱石が切抜きを貼って喜ぶほどの出来栄えだったが、社内の「あまりに高級だ」という非難に屈して連載半ばで挿絵を中断させられ、春仙が描く題字飾りのみに切り替えられるという仕打ちにあっている。



野田九甫:挿絵、夏目漱石「坑夫」(大阪朝日新聞明治41年1月1日付け)