豊原又男『佐久間貞一小傳』(故佐久間貞一君胸像建設事務所、明治37年初版発行、昭和7年再版)によると、板紙(ボール紙)の製作過程がもう少し詳しく書かれている。


「愈々其事に當らんと欲するも、未だ抄造に用ゆべき原料の何物なりやさへ辨ぜざることなれば、原料の本質を知らんと欲し、舶来板紙の斷片を集め之を水に浸して融解せしめ、或いは之を煮沸して分析解剖し、一意原料の發見に心を注ぎたり。偶融液中我邦の麥桿に類似せる粉末の存するを發見し大いに喜び、麥桿を用ひんと決心せり。夫れより氏は直ちに麥桿少量を購ひ、之を粉状の細末に切断し、曹逹を加へて煮沸し、更に石臼に舂き水と糊とを混合して混和して液状となし、之を手漉紙の形式に傚ふて漉き上げ天日に乾燥したるものを見るに、其品質の稍舶来品に類するものを得たる。……是れ板紙製造の嚆矢なり。」と成功までの苦難がうかがわれる。



 肺を患う佐久間を奮起させるのは中村の「願くは亦立志中の人となれ、余は其用品の位價を問はざりべし、故に皆内國製品を得て之に充てられよ」との激励だけではなく、思い掛けないところから需要が発生したことである。「明治十年西南の役起り政府の彈薬包装に板紙を用ひ、舶來品故に缺乏して之を供給すべきものなく、為めに政府は下谷仲町の紙商に命じて、日本紙を以て之に充用するの止むなきに至れるを見、是れ天の板紙に幸せるものなりと稱し、更に刻苦研究を繼續し改良を加へ其製造に從事せり。」(前記)となかなか完成しない板紙製造に活力を入れ発奮させたのは、新たな需要が開けてきたことでもあった。