当時の朝日新聞の連載小説は、「虞美人草」の様にさし絵のない現代小説と、絵入り小説と呼ばれる時代小説の二本が掲載されていた。


春仙は、漱石虞美人草」、二葉亭四迷「平凡」、漱石「坑夫」の装画(題字飾り)を手がけた後に、島崎藤村「春」135回(東京朝日新聞明治41年4月)で初めて挿絵を担当する。洋画風の構図やスケッチに交えて時には和風のタッチをもとり入れ大変な評判を呼んだ。一段組サイズや二段抜きサイズ、時には装画と組み合わせるなど割り付けも自由自在に腕を振るった。



名取春仙:挿絵、島崎藤村「春」(東京朝日新聞明治41年4月15日付)



名取春仙:挿絵、島崎藤村「春」(東京朝日新聞明治41年


金井紫雲は春仙のさし絵について「新聞のさし絵が芸術的になってきた一つの道程を作ったものとして、朝日新聞における名取春仙氏の仕事を忘れてはならぬと思う。春仙氏のさし絵は随分永く続いたもので、一番初め、その腕をみせたのが、藤村のさし絵であったと思う。カットなども非常に気のきいたものがあり、これが少なからず注意を喚起した。それから得意の筆が益々乗ってきたのが、森田草平氏の『煤煙』のさし絵であった。その書き出しの陰鬱な気分に対する春仙氏の筆は、実に活躍したものであった。また、漱石氏の『三四郎』のさし絵の、あの気のきいたスケッチ風のさし絵は今日から考えても余程独創的なものであった」(「美術新論」美術新論社、昭和7年)と、高い評価をしている。



名取春仙:挿絵、島崎藤村「春」(東京朝日新聞明治41年



名取春仙:挿絵、島崎藤村「春」(東京朝日新聞明治41年


東京朝日新聞に部分絵と呼ばれる大きなカットが初めてはいったのは春仙が描いた谷崎潤一郎「鬼の首」(大正5年1月15日〜5月25日)で、次の夏目漱石「明暗」(大正5年5月26日〜12月14日)のさし絵も春仙が描いた。新聞小説に必ず挿絵が付くようになったのは此のころからである。


春仙は役者絵の版画家としての名声は高いが、新聞現代小説挿絵のパイオニアともいうべき新聞小説挿絵界に大きな足跡を残したのであり、春仙の仕事の中では版画にも勝る偉業としてもっと検証、論考され高く評価されるべきであろう。