さらに、佐久間が一人で悩んでいるところに、さまざまな策を授けてくれた人物がいた。『尚茲に特記すべきは、氏の発明研究に對し、隠然其指導者となりて能く氏を導きたる。今の東京板紙會社取締役兼技師長小野寺正敬氏の存在是れなり。氏は幕府の士にして明治初めの米國に留学し、多年製紙業を研究し歸朝後王子抄紙會社の設立に與りて仝社に存りたるを以て、佐久間氏は屡々氏に請ふて教を享けたるのみならず岩戸工場實査を託して改良を加はたること少なからず。苛性曹達を用ゆるの利便なることを及粉碎機プレッス、光澤ロール等の据え付けを得たるは


 小野寺正敬とは「江川太郎左衛門の門にあって砲術及び練兵の法を学び、歩兵指図役となり、明治維新の際鳥羽伏見や会津若松で官軍と戦った。後清水篤守の近侍に任ぜられ、明治三年五月篤守の欧米遊学に従って米国に渡り、ボストンに止まってウエストニュトンのアレン学校に学んだ。卒業後製紙業を研究し更に英仏両国を廻って明治七年十月帰国し、翌八年四月渋沢栄一の勧めによって開業間際の王子製紙の抄紙会社(王子製紙)に入って外人技師補佐に当りまた大蔵省印刷局抄紙部の招聘に応じて製紙教師を勤めた。明治十二年十月米人トーマス・ウオルシに迎えられて神戸三の宮の神戸製紙所の技師長となり、再渡米して最新式の抄紙機を輸入増設して製紙界に模範を示し名声を博した」(『東京板紙と佐久間貞一』)という人物であり、佐久間にとっては中村正直といい小野寺といい、またとない人物に良いタイミングで出会えたことが、偉業を達成しえた要因でもあった。