カバーのルーツを辿ると下記の和本のように、筒状の紙に包んでいたのが原点だったのではないか、と私は考えている。和本の場合は表紙が柔らかく、筒状に丸めれば筒状の紙に(底のない袋の様なもの)挿入するのが簡単だったが、洋本になってからは『国文学史教科書』表紙がボール紙を芯紙とした堅表紙になり、筒状の封筒では扱いが困難なため、糊で接着していた部分を糊づけせずに、書物の表紙の裏に折り込んだのではないかと思っている。

(筒状の封筒の名称について、某大学のA准教授から「書袋(しょたい)」という、との電話でのご指示を頂きました)。


そうだと仮定すると、国産ボール紙が量産されるようになった明治20年代頃からカバーが付いていた可能性も考えられる。

一陽斎豊国・画、柳亭種員・作『白縫譚』(藤岡屋、嘉永庚戌)左が筒状封筒(こんな名称はない、私が勝手にいっているだけ)


明治期の洋装並製本(柔らかい表紙)に付けられた筒状の封筒を見つけた。筒状封筒から現在の形のカバーへとちょうど移行する時期の橋渡しをする物と考えられるのではないだろうか。

左:筒状封筒、右:宮沢俊三『文学者となる法』(友文社、明治27年4月)



のし紙をタオルに巻いたものは、表紙が柔らかな和本を包む「筒袋」と同じで、袋に挿入しやすい。が、箱にのし紙を巻いたものは、後ろを糊付けしてしまうと入れにくくなるので、後ろは切り離したままで、両袖を箱の中面に折り込む。堅い表紙の洋装本のジャケットもこれと同じ原理をおうようしているのだ。