合巻本などでは、十丁(二十頁)ほどで構成される編(さく)に分冊され発刊されるのが一般的であり、多いものでは『白縫譚』のように七十一編におよぶものもあった。しかし、それぞれの編は内容量が少ないため全体を一覧するメニーのような役目をする「目録」や「目次」を必要としなかった。



一陽斎豊国・画、柳亭種員・作『白縫譚』(藤岡屋、嘉永庚戌)


しかし、和本で出版された初版は十一冊十三編であったが、この大量の情報を洋本にすることで一冊に搭載してしまった『改正西国立志編』のように、総ページ数が八四二頁にも及ぶとなると、制作工程でも読書時の検索でも何らかの新しいシステムを導入しなければ、生産工程でのミスや読書時に於ける不便さが発生しかねない。


洋装本では、和本にはなかったノンブルや目次といった新しい概念が導入され、それまでは丁と呼ばれる二頁を単位とした原稿の順番を示したものが、ノンブルという一頁単位に付けた番地とでもいうべき数字・ノンブルに代わる。このノンブルと内容との結びつきを一覧出来るようにしたのを目次という。


ノンブルを付けたことで可能になった面付けによる立体的な構造認識が、乱丁や落丁等の生産工程でのトラブルの発生を抑え効率的な作業ができるようになったことは間違いない。



『改正西国立志篇』(明治10年、七所屋蔵板)



『改正西国立志篇』(明治10年、七所屋蔵板)目録、
この大部の書物の目録がノンブルと連動していない!使いにくいことこの上ないだろうに!


ノンブルとリンクした目次がなければ読書時の検索などでも不便を強いられ、情報量は増えたが「大男、総身に知恵の巡りかね」になりかねないのだが、『改正西国立志篇』目録にはノンブルが記載されていなかった。




では、ノンブルとリンクした目次が登場したのはいつ頃だったのだろうか。手元の資料を探ってみたら、一番古いものでは、
・中邨正直『改正西国立志編』(木平譲蔵板、明治10年
・『官令新誌 拾遺一』(報告社、明治11年
・『小学女禮式第一』(同源社蔵、明治14年
などに、ノンブルとリンクした「目次」を見つけることが出来た。



中邨正直『改正西国立志編』(木平譲蔵板、明治10年



中邨正直『改正西国立志編』(木平譲蔵板、明治10年)巻末に掲載された「正誤」表、各行の一番上の漢数字の下に「葉」とあるのが「ページ」に匹敵するもの。『改正西国立志篇』七所屋蔵板には、正誤表はない。



『官令新誌 拾遺一』(報告社、明治11年



『官令新誌 拾遺一』(報告社、明治11年)目次
わずか134ページの書物だが、目次が8ページもある



『小学女禮式第一』(同源社蔵、明治14年



『小学女禮式第一』(同源社蔵、明治14年)目次
ページ数を「葉」と表現しているのは、和本の名残ではあるが、確かに1ページごとの番号になって、目次に記されている。



ここに書物はノンブルという新しい検索システムを標準装備したことで、それ以降、百年以上も続く最強の情報伝達システムへとメタモルフォーゼすることを可能にしたといえる。