「深川富岡門前町に、伊藤藤兵衛が彩料舗を開いて、ワットマン紙やニュートン絵具を売るようになったのは明治十年のことであり、……画学生には高嶺の花であったのが、明治十二年、村田宗清(安七)がフォンタネージが使った絵具をもとに研究して、国産絵具の製造に成功し、日本橋大伝馬町に、『日本絵具開祖・村田絵具店』の看板を掲げてから、……水彩画の学習も割に容易になったのである。また明治八年頃から、おもに王子製紙から良質、厚手の国産の画学紙が製造されるようになっていた。」(匠秀夫編『近代美術58日本の水彩画』至文堂、昭和55年)と、やはり水彩画を描く環境が整ってきたのは、明治10年以降の事のようだ。
その他にも、絵具について森田恒友は、「その登場は近代を象徴するような事件だった。というのはこれこそ近代工業化学の発達の中で生まれて、育ってきた絵具なのである。絵具は画家の工房で自製するものという長い伝統のある一方で、やっと絵具製造業者が少しずつ独立し始めた時代に、水彩絵具はいきなり完成した商品として現れた」(森田恒友「絵画技法ヘの手引き」『絵』No,170、1878年)と、記している。「それまでは画家の工房で自製するもの」であったというのも面白い。
前回このブログで紹介したものを再録すると、当時の水彩画材の普及状況が更にはっきりと見えてくる。
「当時、水彩絵具やワットマン紙などが無かったのではないが、頗る高価で、画学生には容易に手に入らず、絵具は自分で製造し、紙も普通の画学紙を用いた」(二世五姓田芳柳「水彩画の沿革─初年代より二十年代)とあり、ないわけではなかったようだ。ここでも「絵具は自分で製造」したと書いている。
中村不折も「自分は其頃油絵を描く材料が買へなかつたので比較的費用の要しない水彩画許り描いて居た」(「不同舎に居た頃」)と、回想しており、やはり絵具は高価なものだったようだ。
水彩絵の具の誕生に関しては、これくらいしか史料を持ち合わせていませんでしたが、積ん読してある本をひっくり返してみたら、外国での絵具の誕生の様子について詳しい記述を見つけることが出来たので、引用させていただこう。