「画学科をアントニオ・フォンタネージ、彫刻科をヴィンチェンツォ・ラグーザが担当し、また二人と一緒に招聘されたヴィンチェンツォ・カペレッティが装飾図案、用器画を担当した(カペレッティは参謀本部庁舎の設計を手がけるなど工部大学校の建築科にも関わっていたと考えられている)。
しかし西南戦争後の財政事情の悪化のため、十分な教育ができないと考えたフォンタネージは1878年に帰国してしまった。代わりにフェレッチが招かれたが、フォンタネージに心服していた画学科の学生たちは不満をもち、多数が退学した(退学者たちは十一会を設立した)。後にフェレッチに代わり、サン・ジョヴァンニが就任した。
さらに、アーネスト・フェノロサの提言などもあって日本美術の再評価が行われ、国粋主義が台頭。こうした背景の中、1882年(明治15年)6月に彫刻科が廃止、翌1883年1月には画学科も廃止されて、工部美術学校は廃校に到った。
6年後の1889年、国立の美術教育機関である東京美術学校が設立されたが、当初は日本画・木彫・工芸の三科のみで、西洋美術は排されていた。これに反発した工部美術学校出身の美術作家達を中心に、同年明治美術会が設置された。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
画学科の主な卒業生は、小山正太郎、山本芳翠、五姓田義松、浅井忠、松岡寿、中丸精十郎、高橋源吉、守住勇魚、神中糸子、彭城貞徳など。
浅井忠は日本水彩美術史を代表する水彩画家といっても良い。それどころか、当時の水彩画の世界水準に到達していたといっても過言でない。みごとな水彩画を御堪能下さい。
フォンタネージにいついては「記録的な迫真性と創作的な佳景描写の目的を区別しており、画面の情緒性を重んずる叙情詩人気質の人であったが、オーソドックスな油絵あるいは水彩画の教授とともに、バルビゾン派をはじめ西洋画家にまつわる談話を通しての技巧的な、また人格的な感化力は決して小さくなかったようである。浅井忠、松岡寿とともに、最も認められた小山正太郎の点景人物を配した情趣的な風景画は、その影響の端的な現れである。」(匠秀夫編『近代美術58日本の水彩画』至文堂、昭和55年)と、その影響力の大きさを記しており、掲載した浅井忠、小山正太郎の作品にもその影響をはっきりと見てとることが出来る。
小山正太郎「牧童」水彩40.5×31 1879(明治12)年